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2017/12/18 主幹コラム:市民と寺院の協働モデル~無縁でありつづけるために~

仏の絶対慈悲

12月24日(日)から「コモンズフェスタ2018」の開催が控えています。浄土宗應典院にて毎年行われている本事業は、1998年からはじまった、アートと社会活動のための総合芸術文化祭です。共有地を意味するコモンズの名の通り、それぞれの市民知を持ち寄って、トークシンポジウム、演劇公演、ワークショップ、インスタレーション展示などの企画が連日開催されます。初年度は福祉分野のNPOが中心となって場を担いましたが、2000年頃から次第にアートの色が強まり、現在の形に至っています。各プログラムは一般の市民によって企画されるものが主で、必ずしも仏教と直接関係がある内容とは限りません。しかし、お寺という特異な場の影響か、日常生活とは別の尺度から生と死を見直す趣旨の企画が、自然に多く提案されます。まさに仏教寺院の空気によって、さまざまな分野の表現が賦活されているようなのです。

時代をさかのぼれば、中世の日本において寺院は「無縁所」として機能していました。死者の埋葬や囚人の処刑に関わる「非人」をはじめ、激しい差別を受けていた人々が世俗と縁を切り、一時的に自由と平和を得る場として存在していたのです。無縁ということばの響きに驚かされますが、もともと無縁とは「対象の区別なく、すべて平等であるという、仏の絶対の慈悲」を表していました。のちに、無縁所で育まれた文化が日本芸能の発展をも促すわけですが、世俗の縁と切り離された場だからこそ、日本人ははじめて身分や肩書きから離れた存在として、創造的な共有地をつくりあげることができたのかもしれません。

しかし現代においてもなお、無縁の場を、言い換えれば、すべてが仏のもとに平等である場を維持することは、はたして可能なのでしょうか。中世の寺院では法の手も届かないほど異なる秩序が機能していましたが、現代においてすでに宗教空間は世俗に覆い尽くされており、単にご本尊がいらっしゃるというだけで無縁性を担保することはできません。無縁のコモンズの実現とは、まことに困難な試みであると言わねばならないと思います。

現代社会における「無縁」の場

ところで、今年度の「コモンズフェスタ2018」には、近年のそれとは異なる特徴があります。浄土宗應典院を拠点とするNPOである應典院寺町倶楽部が、2017年度から新体制に移り自立化を深めたことで、これまで浄土宗應典院事務局が担っていた部分も含めて、寺町倶楽部会員が中心となって企画運営を進めていることです。そうした会員による運営体制が、今回の22プログラムという、近年でも珍しいボリュームと多様性あふれる内容に結実し、1月21日(日)に開催する「グリーフタイム×演劇×仏教」をはじめ、異領域の会員同士の、そして僧侶とのコラボレーションが動き出しています

毎回そうなのですが、特に今回のコモンズフェスタを前にして感じられるのは、全く異なる実践や表現がお寺という場で交わっているのだという実感です。全プログラムを大まかに分類するだけでも、仏教、グリーフケア、演劇、詩作、ダンス、コモンズデザイン、出版活動、現代アート……。通常の見方では別々に捉えられるであろうこれらの企画群も、会員それぞれが思い描く仏教寺院での活動という点で一貫しています。もちろん多様な立場や距離感のちがいがあるとは言え、いずれの企画も「仏のもとに、対象の区別なく、平等に」考案され、そして実行に移されようとしていることに違いはありません。こうした試みは、ある明確な社会的役割を持つような、通常の場所では難しいのではないでしょうか。言い換えれば、仏のまなざしが場に通底し、多岐にわたる人間の活動に一本の軸が通るような、そうした「型」の役割を應典院が担っていると言えるのかもしれません。現代社会における「無縁」の場のモデル、いまだ見出されることの稀なモデルのひとつが、市民と寺院とのこうした協働にあらわれているように念じています

おそらく参加者のほとんどは、全22プログラムのうち興味のある企画1つか2つに参加されるのだと思います。そうした関わり方はもちろんあってしかるべきですが、きっとコモンズフェスタの本領とは、一定の期間「應典院に足を運びつづけること」によってはじめて体感されるのでしょう。釈徹宗先生が再建20周年記念講演でおっしゃられた通り、應典院に通底する仏のまなざしは、時間をかけて様々な場をめぐり、体験しつづけなければ分からない種類のものです。ある意味で、この場では参加者にも求道心が必要とされている。秘められた何らかのメッセージを受け取ろうとする、真摯な修行者であることが求められているのかもしれません。

秋田光軌

(大阪日日新聞・澪標連載に加筆)

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秋田光軌
(浄土宗應典院主幹、浄土宗大蓮寺副住職)