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1/10~25 コモンズフェスタ2015合同展「対内・体内・胎内・タイナイ~四体~」開催いたしました。

「居心地の悪さ」

コモンズフェスタ2015の一環として、2015年1月10日(土)から25日(日)まで應典院1F Wall Galleryにて、合同展「対内・体内・胎内・タイナイ~四体~」が開催された。参加作家はKatie Funnell(テキスタイル、対内)、ヨシダダイスケ(写真、体内)、山岡勇祐(音、胎内)、sonsengochabacco(絵画、タイナイ)。「たいない」という同じ音から派生する4つの意味、「対内」「体内」「胎内」「タイナイ」に、それぞれ4名の作家が向き合うという試みであった。

写真1

コモンズフェスタは1998年から開催している應典院の総合文化祭で、これまで絵画、インスタレーション、写真、ビデオアートなど様々な美術展を開催してきたが(201220132014)、実は、複数のそして異なるジャンルの作家たちが一同に参加する「合同展」は初めての企画だった。作家それぞれの意図も方向性もメディウムも異なる中で、どのような空間をつくりあげていくか、それは應典院にとっても新しい挑戦であった。

展覧会に先立って、企画者の山岡自身はインタビュー(※1)の中で以下のように答えている。「『なんとなく居心地が悪い』みたいな感覚的なものからでいいので、自分に対峙する色々な人の思考があふれる展示になれば一番ですね。」実際、その「居心地の悪さ」は、異様な音と描写と光によって体現されていたといえよう。とりわけ、ひんやりと静まりかえるコンクリートとガラスの仏教寺院の中でその怪しさは際だっていた。

展覧会の会場には、天井からつり下げられた8個のスピーカーから流れてくる男声の朗読(厳密には女性の声も入っているが)が鳴り響き、sonsengochabaccoによるモノクロの筆触で女性器をデフォルメした圧巻のドローイングが並ぶ。照明は、Katieの作品で、自身の経血の写真を投影した透明なフィルムを光源に設置し、会場全体を包む淡い紅色が見事に再現されていた。彼女のテキスタイル作品も、朱色に染められた糸の織り重なりが、臓器のひだや隆起を髣髴とさせるものであった。そして、このある種グロテスクな空間の中に、不思議な違和感をもって差し込まれたのがヨシダのマットな写真作品である。それは、「居心地の悪さ」の温度調整をする一滴の清涼飲料水のような役割を寡黙に担っていたようであった。またそれがゆえに、会場に響き渡る不協和音の強度が際立つアクセントにもなっていたといえよう。

写真2 山岡勇祐(音、胎内)

写真3 sonsengochabacco(絵画、タイナイ)

写真4 Katie Funnell(照明・テキスタイル、対内)

写真5 ヨシダダイスケ(写真、体内)

他方、観者はというと、入場に際して入り口で配布されたラジオのヘッドセットを装着し、そこから流れてくる胎内ノイズを加工した音源に耳をかたむけながら、ゆるやかなスロープを描く会場を回遊する。実際、会場に足を踏み入れるやいなや、ヘッドセットと頭上のスピーカーから流れてくる音源、左右には絵画と写真、そしてなにやら怪しげな赤い照明が表れる。視覚と聴覚へ、上下左右とあらゆる方向から訴えかけてくる作品群の表出に、観者は一瞬の戸惑いを覚える。何より、その情報過多な身体感覚は、観る者にある種の混乱を予期させるのだ。しかし、意外なことに、頭上の小型スピーカーから降りてくる朗読の音と、イヤホンから直接入ってくる音源が不思議と互いに邪魔することなく共存するのである。そこで、私たちは、ふと自分の耳が瞬時にそして正確に、情報の「遮断」と「選択」を行っているという事実にハッとさせられる…。

オープニングトーク:「ウチとソト」
1月10日に開催されたオープニングトークでは、作家4名に加えて應典院の秋田光彦住職をお招きし、あらゆるものの「ウチとソト」をテーマに対談が展開した。
山岡は、身体の「ウチ」側に迫り、胎児の心音や羊水のノイズなどをフィールドレコーディングする中で、できるだけそれらの音源作品の「意味合い」をなくしたかったと強調。sonsengochabaccoも、女性の「タイナイ」を描くにあたって、自らの「初期衝動」に忠実にしつつも、「『汚い』と『美しい』との境界を攪乱する芸術」に賭けていたと回顧した。
他方、Katieとヨシダは身体の「ソト」側に目をむける。Katieは、今回唯一の女性作家そして外国人作家として、子宮から離れること、そして母国(イギリス)から離れること、その「ウチ」から「ソト」へ向かう距離感についての問答を赤裸々に吐露した。さらに、ヨシダの写真作品は逆に「ソト」側から語りかけようとする。その視線は「水しぶき」、「木漏れ日」、「固くつながれた手」そして「ズームアップされた皮膚感」といった身体の「ソト」を捉えているのだけれど、それらをみつめている私たちは、いつの間にか、それらの視線を通して自分の体のウチにある「記憶」に回帰しているのである。
「ウチ」側からみる「ソト」側と、「ソト」側からみる「ウチ」側、その不思議な迷路性が、会場レイアウトの流線型とあいまって、知恵の輪のようにループしながら、観者の三半規管そして記憶にはたらきかける。
最後に、秋田住職は「どこまでが内側でどこからが外側か、その境界線は常に曖昧。むしろいくつかのレイヤーになっていて、それらの関係性は『内側の強烈な重心力』があってこそ見抜けるもの」と投げかけた。

写真6 オープニングトークの様子(1月10日)

トーク会場からは、「偶然にも、應典院が『胎内めぐり』(※2)をするとどうなるか?という実験になっていたのではないか」という指摘もあり、應典院という仏教寺院の建築そのものへと話題が展開。それに対して、秋田住職は、「應典院の建物は実は、何もしていないときがすごくいい。その、何もしていない時(を充足させる)ために日々色んな催しをする、ともいえるかもしれない」と付け加えた。

2週間の展示期間を経て、また應典院は「何もしていない」無機質な空間に戻った。その余韻にひたりつつ、また新しい「違和感」を生むために次ぎの何かが始まっている。

(※1)應典院寺町倶楽部会報サリュ95号の巻頭インタビューとして4名にお話を伺いました。
(※2)ここでは清水寺(北法相宗)随求堂の胎内めぐりをさす。お堂の下を大随求菩薩の胎内に見立てた胎内めぐりは、真っ暗な中を、壁に巡らされた数珠を頼りに進み、この菩薩を象徴する梵字(ハラ)が刻まれた随求石を廻して深く祈り、再び暗闇の中をたどってお堂の上に戻ってくるというもの。

写真1~5:ヨシダダイスケ
写真6:秋田光軌(應典院)
文責: 小林瑠音(應典院)