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2018/1/22 住職仏教講話:悲しみからしか、表現は立ち上がらない。

朝9時の仏教講話

應典院では演劇の仕込みの朝、「法話」と「念仏」がある。「法話」とは宗派伝統の様式があるので、正しくいえば「仏教講話」というようなものだろうか。30代中心の若者たちが、僧侶の話を聴くなど、ほとんど未知の体験だろう。
「布教はやめて」「坊主の話など演劇と関係ない」というクレームがあっても不思議ではないのだが、不思議に20年間一度もそんな声を聞いたことがない。「場の習わし」として受け容れられているのだろうか。たまに「今日のお話、よかったです」と、感想をくれたりする。朝9時、劇団員が本堂に勢揃いして、正座合掌する。表現が始まる前に、厳粛で静謐な時間が生まれる。これは、演劇人と僧侶による協同作用だ、と思う。
練り込まれた話とは言い難い。ありがたい話でもない。プロの布教師さんには叱られそうだが、せっかくのウェブサイトなので、少しずつ「記録」として書き残していたい。
今回は学生劇団にお話しした内容。若さ真っ只中の人たちに伝わっただろうか、心もとないのだが。

生老病死という悲苦

悲しみについてお話します。

私は隣の大蓮寺というお寺の住職もしているのですが、時々思いがけない訪問者を迎えることがあります。以前あった話ですが、突然男女二人が入って来て、このお寺で水子供養してもらえるか、と仰るんですね。二人が恋人なのか夫婦なのか分からない。名前も名乗らないし、こちらも聞かない。でも断る理由がないので、どうぞどうぞと見知らぬ二人を迎え入れるのです。

本堂でお経を読みはじめて間もなく、びっくりしました。突然女性の方が泣きだすんです。振り返ってお話をしている間もずっと泣いているから、男性のほうはそっちが気になってとてもお経どころじゃない、お話どころじゃない。これで供養になったのかなと思っていたら、別れ際になって初めて女性が私の顔をじっと見て、和尚さん、私これでようやく救われた気がします、ありがとうございます、と残して帰っていかれたんですね。

彼女の場合、供養したいという気持ちと、もう一つはお寺に泣きに来た、心の中の悲しみを吐露したくて来たんじゃないかと思います。

私たちは、一般的に悲しみという感情が苦手です。テレビ見たら、芸人さんが朝から晩までわーわーやってるじゃないですか。世の中、悲しんでいる暇なんかない、楽しく明るく何事もポジティブにいかねばならない。そういうメッセージってけっこう刷り込まれていると思うんですけど、本当にそうなのでしょうか。

逆に、私たちは気がつかないふりをしているだけなんじゃないか、今、足元の床を一枚はいだら、その下には声なき悲しみや姿なき苦しみが、びっしりと張り巡らされているというのが現実の姿なのではないかと思うのです。

仏教は、その悲しみや苦しみに打ち勝つ、克服するための教えではありません。仏教の基本認識は、まずこの世の中はあらゆる悲しみや苦しみの連続にある。すごく悲観主義なんです。そのことに決して目をそらさずに、それを前提に、悲しみや苦しみをわが定めとして受け入れながら、どのように折り合いをつけていくのかということを教えています。

悲しみや苦しみ(悲苦)をわが定め、とかいうと、なんで定めやねんと思うでしょうけど、仏教の悲苦は、問題解決できるようなものとは質が異なります。仏教の最も基本的な苦しみは生老病死といって、生まれること、老いること、病すること、死ぬこと、「四苦八苦」の四苦はここからきていますが、これは自分の意思ではどうにもできない。自己努力で解決しようのない定めなんです。

自分の意思で生まれてくる人はいない。老いる人もいない。自分の力でなんとか病気を克服しようと、もちろん医療が発達して一定は克服できたかもかもしれないが、やがて最後はなんらかの病気で死んでいきます。その最大の謎は死という不可避な問題。自分が自律的で主体的な存在であるはずなのに、この四つは誰一人例外なくどうにもならない、そういうものを私たちはあらかじめ抱え込んで生まれてきたということを、仏教ではわが定めとしてとらえています。

どうにもならないから、生きよ。

うっとうしいな、暗いなと思うかもしれないけど、逆にたいせつな教えがここにあるのではないでしょうか。

自分の意思ではどうにもならないのに、私たちはそれを操作可能なものとして、問題解決を図って来た。大抵はお金があればなんとかなる。病気も克服できる。死を遠ざけることができると考えている。アンチエイジングっていいますけど、私は嫌いです。年取ったら年取るしかないやないかと思うんですが、なんとか取り繕って、老いを忌避しようとする姿は。わるあがきに近い。どんなにお金をつぎ込んでも、結局、その本質は何も変わらないのです。

自分の意思ではどうにもならないことを、昔の人はたいそう恐れました。たとえば自然の災害とか感染症とか、今でもそうですが、得体のしれない恐怖を感じる。自分でコントロールできないものが、起動した瞬間、私たちはものすごく臆病になり恐れおののく。現代でも、震災などへの反応はその典型です。

でも、私たちだからそれが惨めだとか敗北だとか思わない。そのどうにもならなさに佇んだときに、人々はどういう力を発揮するか、それは自分の小ささを自覚しながら、「生きよ」ということなんです。生きているかぎり生きよ、老いても生きよ、病しても生きよ、死んでも生きよ(この世の務めを終えたら、次の来世、極楽浄土で生きる)。どうにもならない恐れに直面した時、私たちはいのちのかけがえのなさを知り、今を精一杯生ききるということを無言のうちに教わってきたのではないでしょうか。

現代人は傲慢な存在です。一人で自立している、自分の力でなんとでもなる、と思っている。でも、自分一人で生まれてきた人もいないし、この劇団に入りたいとか生まれながらに決めていた人がいないように、大きなはからいや無数の出会いや経験が積み重なって、たまさかこのメンバーが集まっている。それってすごいことだと思うのですね。

そのかけがえのなさに、まずありがたいな、素晴らしい縁だなと思えるかどうか。話がジャンプするようですが、私は表現とはそんなとこから生まれるんじゃないかと思っています。

何かを支配する、操作する、管理するという観点から本当のクリエイティブは生まれてこないです。逆に何かを恐れる、何かに対して悲しみをたたえている、あるいは繊細さとか傷つきやすさを抱えるところからしか、表現というのは生まれて来ないんじゃないかと思っています。

みほとけ様の前で、20年間こういう場をやっているのは、そういう本当の表現の出発点にみんなとともに立ち返りたい。そんな願いがあるからです。

合掌。同称十念

 

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)