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2018/2/6 主幹コラム:極楽浄土と社会のあいだで、物語を選び取るということ。

去年、超宗派の僧侶による団体「フリースタイルな僧侶たち」と朝日新聞社により、心斎橋の三津寺にて開催されたイベント「修行体験ブッダニア」に、念仏の講師として参加させていただいたことがありました。修行を日本一気軽に体験できるという趣旨のこのイベントに、宗派の枠を超えてお坊さんが集い、それぞれの修行法や文化について学ぶ場を持ったのですが、驚いたことに押しかけた250名もの参加者のほとんどが、普段は仏教やお寺に縁がないということでした。そこで私からは、念仏を唱えるとはどういうことなのか、自分なりにお話させていただき、ワークショップを行いました。

私たちは皆、何らかの物語にのっとって生きています。たとえば「好きな人と結婚したら幸せになれる」とか「やりがいのある仕事について自己実現しよう」といったものが、現代における物語の典型かもしれません。実は、好きな人と結婚したからと言って幸せになれるとは限らないし、自分にとって本当にやりがいのある仕事とは何なのかが分かることもありません。こういった物語があるからこそ、人は恋をしたり働いたりする動機を手に入れることができるのですが、その物語が絶対の真実だと思い込んでしまうと、それに過剰に囚われ、しがみついてしまうこともあり得るでしょう。仏教が伝える「苦」とは、まさにそうした物語への執着に他なりません。

さて、浄土宗の僧侶として大切なのは、まずは「極楽浄土の物語」だということになります。自らが至らない愚者であることに気づき、かつて「我が名を呼ぶものは誰であろうと必ず救う」と誓われ、西方極楽浄土を建立された阿弥陀仏に、自分の至らなさを預けていくという物語。また、自らがこの世での生を終えた後、極楽浄土で悟りをひらくための修行を重ねて仏となり、人々を導くために再びこの世に戻ってくるという物語。こうした物語を自分にとって必要なものと選択し、人生に染み込ませていこうとする実践が念仏ではないだろうか。こうした話を終えて、見ず知らずの人たちと実際に念仏を唱えてみましたが、少なくない人が熱心に取り組まれたおかげで、声と声が響き合って「極楽浄土の物語」に結びつくことの、その入口くらいは体験していただけたようでした。

「極楽浄土の物語」は、現代人が普段慣れ親しんでいる、140字に収められるような物語とは明らかに異質なものです。私たちは大量の細切れの情報に取り囲まれていますが、自ら物語を選択し、人生と擦り合わせていく経験には不慣れです。むしろ私たちは、学校や企業において、その場の規範的な物語にひたすら順応することを教え込まれてしまう。社会で生きていくかぎり、それは一定必要かもしれませんが、「普通は~であるべきだ」という規範的な物語から離れられないことによって、人々の生はますます不自由になっているのかもしれません。さらに、その不自由さから目を逸らすために、規範から少しでも外れる者を排撃して満足するとしたら、社会の物語こそが悪い意味での宗教と化している可能性があります。

大事なのは、社会のただ中で暮らしながら、その中で通用しているものとは別の物語を、自らの経験や思考と照らし合わせて検証し、選び取っていくことではないでしょうか。つまり、主体的に選び取られた「極楽浄土の物語」とは、本当の意味で自由に、自らに由って生きられる物語のことなのです。

一方で、自らが主体的に選び取る物語とは、えてして自分勝手な、独善的なものになりがちです。おそらく現代に生きる私たちは、様々な物語の検証と選択にあたって、自らに対する透徹した智慧と、他なるものに対する慈悲とを兼ね備える必要があるのでしょう。「極楽浄土の物語」が唯一絶対のものではないことを知りながら、「極楽浄土の物語」に対して真摯に帰依し、お念仏を唱えることができる。その曖昧さにとどまることが、私たち人間の強さを表しているのではないかと思います。

南無阿弥陀仏

 

 

人物(五十音順)

秋田光軌
(浄土宗應典院主幹、浄土宗大蓮寺副住職)