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2018/2/21 インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」第1回:松本紹圭(前編)

應典院ホームページ上の新しい取り組みとして、インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」をスタートします。本連載は、さまざまにご活躍されている仏教者の方々に、社会や仏教の未来に対するビジョンを伺うもの。記念すべき第1回には、「未来の住職塾」をはじめ應典院とも長年ご縁の深い、松本紹圭さん(浄土真宗本願寺派光明寺僧侶、一般社団法人お寺の未来代表理事)にご登場いただきます。前編では、仏教のポテンシャルがより広く社会において発揮されることをめぐってお話を伺いました(聞き手:秋田光軌)。


仏教×SDGsの可能性

――2017年11月、築地本願寺で「仏教×SDGs 次世代リーダーズサミット」が開催されました。非常に大きな反響があり、私も大阪から気になっていたのですが、松本さんは積極的に発信されていましたね。当日の反応はいかがでしたか。

松本 とても良い場になったと思います。まず確認しておくと、SDGs(エスディージーズ)とは、Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の頭文字です。2015年に国連にて採択されたSDGsは、貧困・飢餓・不平等など17の諸課題を解決するための目標のことで、世界中でその実現に向けた動きが活発化しています。私は2年前ぐらいにSDGsを知りました。出遅れていた日本でもやっと、経団連や産業界をはじめ、政府も首相官邸に推進本部を置いて取り組みの推進に動きはじめています。そういう大きな流れがある中で、当然仏教界も地球社会の一員として取り組むといいと思いますし、仏教界は特にがんばるべき理由があるんじゃないかと思ったんです。

理由はいくつかありますが、一つ目は仏教教団が様々な活動をする際に、どうしても活動が内にこもりがちになることです。たとえば浄土宗が「おてつぎ運動」をがんばる中で、「そちらの企業でも一緒にやりませんか」とか、外に向けた働きかけって想像できないですよね。せっかくよいことをしていても、結局、内輪の話で終わってしまい、活動していることが知られていかない。しかし、SDGsが世界共通の社会貢献プラットフォームになっていくのであれば、そこにコミットすることによって、たとえば「SDGsの目標達成に向けて、うちの宗派でもがんばってます」と発信できる。そうすれば、行政や企業と「何か一緒にやっていきましょう」と連携することが、少なくとも今までよりは実現する可能性がある。

二つ目は、政治性の強い組織にありがちですが、伝統仏教界では政権交代してトップが変わったときに「前任者がやっていた活動が気に入らないから、全部無かったことにしてしまおう」って、教団の活動がストップしちゃうようなことが時々起こっていると思います。内輪の話だから、内輪の論理に翻弄されてしまう。でもSDGsはそういうエゴの話じゃなくて、人類全体で取り組まないといけない話だから、誰かの一存で覆せることじゃないんですよ。国連で世界が合意した目標を否定することは、宗政に関わる人間としての見識を疑われますから、さすがにできないでしょう。よい活動の継続性を担保するためにも役立ちますよね。

そして最後に、私が一番重要だと思うのは、SDGsという目標になぜ取り組むのかという根拠を、倫理的・哲学的・宗教的な視点から支えてあげることだと思うんですね。SDGsという共通目標は示されているけど、その目標に向けての取り組み方や考え方は、それぞれの社会や個々人に任されています。ならば、日本のローカル社会において、どういう思想的根拠や行動原理をもってSDGs推進に取り組んでいくのかを仏教の立場から示すことができれば、仏教が、言ってみれば日本におけるSDGs推進の基盤として機能しうると思うんです。仏教が思想として社会に役立てる、出番なんじゃないかと。

SDGsの理念は「No one will be left behind」、つまり「誰一人取り残さない」というものです。浄土真宗でも「摂取不捨」という言葉が大切にされていますが、仏教の考え方との重なりも大きいと感じていました。それが、今回の築地本願寺のシンポジウムへつながり、浄土真宗本願寺派、1977年生まれの大谷光淳ご門主の冒頭スピーチでは、阿弥陀仏の救いに触れた私がどう作り変えられていくのかについて、踏み込んだお話をいただきました。念仏をいただいて生きる私が、今どういう世界に生きていて、どう行動するのか。テロや紛争、環境破壊や原発問題も含めた社会課題に触れながら、仏様にはなれないかもしれないけど、真似事でもいいから何かアクションしようというメッセージを発せられたのは画期的なことですね。シンポジウム以来、ご門主はご法話などでもSDGsについて積極的に発言されるようになりました。

――それはすごいですね。浄土宗だと、それぐらい若い世代の方がトップにいることは想像がつかない。

松本 これほどお若い宗教リーダーは、世界的にもあまりいらっしゃらないんじゃないでしょうか。僧侶として妻帯した親鸞聖人を宗祖に持つ浄土真宗のユニークなところです。伝統仏教界なんて、普通は長生きしないとポストにつけない世界ですから。SDGsのような取り組みを本願寺派がやり始めることで、また仏教界全体に広がっていくことを期待しています。

――伝統教団でも多くの人は「社会に向けた慈悲の実践が大事」ということは分かっているけれど、じゃあ慈悲の実践って何をすることなのかと問うた時に、アウトプットの仕方が相当に限られている印象があって、それも宗門の活動が内にこもりがちであるという部分に関わるかと思いました。SDGsみたいなスケールの話が出てくると、きっとアウトプットの仕方もどんどん変わっていくだろうし、今までにない大きな流れになっていく予感がします。

トランジションの技法としての仏教

――SDGsに限らず、仏教の持つポテンシャルが、より広く社会においてどう発揮できるのかというところに、松本さんのご関心があるのかなと感じています。松本さんにとって、仏教の持つ力、その可能性とはどういうものだと感じていらっしゃるのでしょうか。

松本 もちろん、長い伝統を持つ教団宗教のあり方を完全に否定するつもりはありません。剥き出しの宗教性って容易にカルト化していくので、宗教が持つそうした危険性を伝統の「型」によって抑えていく、安全弁としての教団宗教の役割は大事なものです。ただ、その安全弁に徹してしまって、毒にも薬にもならないものに堕してしまっているのが、今の伝統仏教の現状でもあるのかなと思います。

イスラム教やキリスト教と比べて、仏教は哲学のようでもあり、そこが個人的に好きなところですね。教団宗教としては、信者を増やすことや、社会的規範を示す役割などが重要なのかもしれませんが、一人ひとりの人の生活実践としての仏教にとっては、それほど重視すべきことではないと思うんです。この世界を生きる一人ひとりの人が、いかに幸せに、豊かに、自由に生きるのかに貢献できればそれでいいんだと。仏教は、仏の教えであると同時に、「人が仏になる」教えです。人が人を超えていく教えですから、ヒューマニズムとも違います。私はときどき「人でなしの教え」だって言ってます(笑)。

仏教は歴史が長いがゆえに、いろいろなものと結びついて文脈がこんがらがっています。仏教と聞いて葬式を思い浮かべる人もいれば、釈尊を思い浮かべる人もいる。これからは、その手垢を落としていくというか、それぞれが新しい切り口を見出しながら、仏教のポテンシャルを再発見していくことが必要じゃないかと思うんですね。たとえば仏教の本だけ読んでいても見えてこないことが、科学や哲学の本を読むことで、仏教のまた異なる一面が見えてくるようなことがあります。その新しい切り口は、さまざまあって良いはずです。

私が最近注目しているのは「トランジション」という切り口です。トランジションとは、日本語に訳すと「遷移」「移行」「推移」「過渡期」といった意味になります。考えてみれば、私たちは人生の節目で、ある目的地に到達して、また次の目的地に向かうことを繰り返しています。私たちは、飛行機の乗り継ぎ(トランジット)みたいに、色んなタイミングで変化を経験する。そのような、社会や人生に起こる目に見える外側の変化をチェンジと呼ぶならば、それと合わせて、「変わらずにこのままでいたいのに」「ほんとうはこっちの方向に行きたいのに」というような心の中の思いを手放すことも必要になります。そのような、一人ひとりの内面的な変化をトランジションと呼んでいます。

生まれて、成長して、幼稚園・小学校・中学校とあがっていく。学年ひとつとってもそうですよね、クラスが変わって、また新たな環境になります。部活、受験、就職、その次は転職するかもしれない。結婚したり、子どもが生まれたり、離婚したり、リタイアしたり、色んな外面的な変化(チェンジ)を経験し続けるわけです。その度に、私たちには内面的な変化(トランジション)が必要となる。トランジションがうまく促されないと、状況の変化と心が乖離して、引き裂かれてしまいます。死によってもたらされるトランジションがおそらく一番大きなものですが、よく考えれば私たちは日々、小さな生死を繰り返しており、そのすべてにトランジションが伴っています。

人生の節目節目、トランジションが必要な場面で、人間は「どうして思い通りにならないんだ」という執着を抱いてしまう。仏教はそれを「苦」と呼んでいるわけですよね。それに対して仏教が提示するソリューションは、身も蓋もないものです。「思い通りにならないということを知る」ことなんです。一つ一つのトランジションを、人生が思い通りにならないことを知るための糧として生きる。大きな生死も小さな生死も、その執着を手放していくプロセスとして捉え、トランジションを促していく。それを理論としても実践としても両方兼ね備えている体系が仏教なんじゃないか、と。

トランジションが必要な場面で、どうすることもできないけれども、執着する思いが生まれてしまう。お寺はずっと昔から、そういう思いに寄り添ってきた場だと思うんですね。例えば、震災で亡くなった方たちに対して、何もできることはないかもしれない。それでも、どうしても何かしたい。だから祈る。そういう祈りが無数に積み重ねられてきた場所が、お寺だと思うんですね。亡き人に向けた祈りもあるし、その祈りの装置としてのお墓もある。死という機縁においてトランジションを促す舞台装置として、お寺は機能しているんですよね。大切な人を失ったとき、人は亡き人だけでなく、亡き人がいた時の自分の一部も失っている。「あの人と一緒にいた時の私の感情は、一体どこに行ってしまったんだろう…」。手放せない思いが生まれます。その思いを手放せるように、儀礼的に支えてきたのがご法事とかお葬式だと思います。

また、そうして人の人生のトランジションを促す役割を担ってきたのがお坊さんでしょう。今のお坊さんはそんなに積極的にできていないかもしれませんが、手放せない思いを抱えた人との対話や人生相談もしてきたはずですね。トランジションを促す学と行の体系としての仏教、トランジションを促す舞台装置であるお寺、トランジションを促す存在としてのお坊さん。日本仏教がやってきたことは、そういうことじゃないかと思っています。

(後編につづく)

人物(五十音順)

松本紹圭
(浄土真宗本願寺派光明寺僧侶、一般社団法人お寺の未来代表理事)