イメージ画像

2018/7/27 住職コラム:おてらで終活、について考える。 死を「語り合う」ということ。

 「葬式をしない寺」應典院が終活事業に取り組む。演劇やアートの場として知られる應典院だが、「生死」にかかわることはお寺の最大の使命。生き死にそのものを生涯唯一の表現とするならば、これもまた人生最後のアートと言えるかもしれない。

 昨今の終活ブームは、おひとりさまの時代、死後を不安に思う人々の事前行動みたいな側面があるのだが、商品とかサービス抜きで考えれば、これほど人々が死に対し意識的になった時代もなかったのではないか。少子化と単身化、さらに無縁化も深刻だ。寄る辺ない人々が、死後の安寧を求めて行動を始めた。そう思うと、お寺の出番なのだと思う。

このコラムでは、秋田光彦住職が随時、終活をテーマに書き綴ります。ご愛読ください。

 

高齢者にとって、どう逝くか、は人生完成期における最大の課題だ。それと生前の意思表示はセットになっている。

ACP(アドバンス・ケア・プランニング)という言葉はご存知だろうか。自分の人生で大切なことや希望する終末期の治療、ケアについて医療者や家族と繰り返し話し合うことをいう。意思表示に第三者を加えて、いわば検証するのだ。

エンディングノートに書いているから大丈夫、というわけには行かない。延命治療や緩和ケアの記入欄は一般的になったが、時期や環境によって人の心模様は移り変わる。延命のあり方について十分理解と納得があったか、専門家の意見や医療の情報も取り入れたか、など本人と周囲が「話し合う」プロセスが必要なのだ。

日本の「死の質」は高くはない。世界先進80カ国の中で14位。また、自分の死について意思表示は大半が賛成というが、実際に生前から書面作成している人はその3%程度に過ぎない。死は私的な領域の中に閉ざされている。

かくも日本人は何故「死を語り合う」文化が希薄なのだろう。昨今の終活ブームはその反動のように見えるが、墓や葬儀の準備を急いだところで、自分がどう逝きたいのか、その本質論には追いつかない。

巷には生と死の学習会や、最近だとデスカフェなどがあるが、そこで話者に学者なんかが登場すると、統計だとか歴史だとか、肝心の話し合いが遠のいてしまう。「死を語り合う」ことは、勉強会とは違う。

寺院という場所の重量感は、そこでずっと死者を祀ってきたからだ。知識や情報が死者の声にかき消される。いきなり核心が問われるのだ。浄土宗でいえば「浄土往生」という死後、仏の国で生まれ変わるという信仰が生きてくるのかどうか。

しかし、信心決定を求められるのだから、そこに話し合う余地は薄い。信じるか信じないか、択一が問われ、信じないものはやがて寄り付かなくなる。話し合いを好む布教師さんも絵にならないだろう。

そこで、お寺で終活、である。私も何度も体験があるが、終活を扱うと僧侶も対話的にならざるを得ない。終活情報は僧侶にとってアウェーだし、そのニーズは千差万別で個別的だからだ。布教師さんがそうでないと言うつもりはないが、僧侶が生活者の課題に対し謙虚になるのは、たいせつなことだ、と思う。お話を聞かせていただくのだ。

いきなり信仰の問題をぶつけてくる人は少ない。まずは、葬儀や墓の相談ごとを窓口にしながら、僧侶がその対話者となって、その人の死生観の萌芽を促すのである。どう逝くかは、どこへ逝くかと一対である。死生をつなぐ長いストーリーが紡がれていけば、人は最期の光景を思い描くことができると思う。

医療者だけでは科学的話し合いに陥りやすい。お寺と終活には、ACPを本当の語り合い、物語る力へと導ける可能性がある。そう期待している。

 

應典院の「おてら終活カフェ」、次回は8月3日(金)14時から

死の専門職と僧侶が語り合います。ぜひご参加ください。

https://www.outenin.com/article/article-11285/

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)