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2018/6/29-7/1 戒田竜治:「應典院舞台芸術祭Space×Drama×Next2018 劇的集団まわりみち’39『誕生へのロードワーク』」を開催いたしました。

應典院寺町倶楽部主催の演劇祭、應典院舞台芸術祭Space×Drama×Next2018(通称SDN)が、実力派ぞろいの贅沢すぎるオープニングアクト『縁劇フェス』(6/23・24)を経て、6/29の劇的集団まわりみち’39『誕生へのロードワーク』で幕を開けました。

本年度から全面リニューアルした應典院舞台芸術祭は、これまでの短期集中型から年間開催に移行し『じっくりと向き合う』演劇祭に生まれ変わりました。「いのちに気づく演劇プログラム」とテーマ設定しました1年間に渡る應典院舞台芸術祭の1作目は、『問題意識、全部のせ』(作・演出の斜あゐり談)な作品でした。

應典院寺町倶楽部事務局長、戒田竜治による開催報告です。


『UTと呼ばれる人々と、VTと呼ばれる人々が暮らす世界。自分たちを豊かで先進的だと称するUTたちは、少子化対策のために「親ひとり子ひとりの政策」を施行、家族の概念を根本から覆す制度改革を行った』(フライヤーのSTORYより)

 

描き出される世界での「親ひとり子ひとりの政策」はすべて養子。遺伝情報を元にランダムにペアリングされている。さらにUTたちは「結婚なんて野蛮」と嫌悪感を示す。対して、VTは「伝統」どおりの生き方を選ぶ人たち。VTたちが少数派として迫害されている。かつて大規模な武力衝突があったようだが、そこはサラリとしか描かれない。

UTたちが何故、そのような「理想」を掲げるに至ったかも大きく取り上げられることはなく、ただただUTたちとVTたちが互いに「気持ち悪い」と語る、嫌悪感の描写が続く。そのためかディストピア感が薄い。

むしろ、迫害や差別の無根拠感がじわりと押し寄せてきて、SF的な設定は作り手が現代社会を箔押しするための道具であった。そこに『全部のせ』した問題意識は、パワハラ、LGBT、人種、差別、迫害、発達障害、自閉症、虐待、貧困、共依存……。

これらを他者との関係性を紡ぐ困難さという切り口でアプローチしていく。群像劇的な物語中で幾人もが「初めて出会う」あるいは出会い直す。その時に、関係性を紡ぐことの困難さをUTとVT、それぞれの「常識」の中で描いていく。

総じて、豊かで先進的であるはずのUTの人たちの方がその困難さへの耐性が弱く描かれる。また、他者の「弱音」に対して、(共感できなくとも)寛容さを示すVTと、そもそも弱音を吐露できないUTという対比も為される。

VTは、かつての同志を監禁してしまうような極端さはあるものの、他者との関係性に対して正面から向き合う。対して、血縁や愛情といった「しがらみ」から自由で文明的であるはずのUTは、「しがらみ」の中で生きる少数派のVTを激しく嫌悪し拒絶し差別し迫害するが、他者との関係性を紡ぐことに弱く脆く描かれる。

UTの世界を統括する「レンメイ」の「えらいさん」に至っては、そのパワハラ的体質を被害者から対面で指摘された際に、耐え切れずに刺し殺してしまう。物語は「えらいさん」が法廷に立つシーンで終幕を迎えるが、『人を殺した』んですよ、と何度指摘されても彼には届かない。薄笑いを浮かべるばかりである。彼にあるのは「常識」であって「理想」ではない。彼は彼の「常識」の中で生きている。

ところが、殺人を犯したことに一向に反省を見せない彼に対して、不思議と絶望感を感じない。本作が試みたことが、彼のような「常識」の糾弾ではなく、提示であったからであろうと思う。作中に描き出される様々な『問題意識』に対して安易に答えを出さない、考え続けるのだという姿勢は最後まで貫かれる。

殺されたかつての部下もまた、理想に殉じたわけでもない。ほとんど通り魔に会ったのと同じように命を落とす。それがかえって、この群像劇が無数の命がひしめき合う物語であったことを際立たせた。

これほど「嫌悪感」に満ちた物語でありながら、「悪意」が存在しない物語であったことに戦慄を覚える。登場人物たちは「常識」や、ともすれば「善意」に基づいて差別し迫害し、人を傷つけていく。物語に箔押しされた現代社会が、あるいは観客である自分自身が、さらには演じている自分たち自身が、「常識」や「善意」で『人を殺した』ことはないか? という問いかけが胸に突き刺さる作品だった。

人物(五十音順)

戒田竜治
(演出家・脚本家 / 満月動物園主宰、應典院寺町倶楽部事務局長)