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1/24 コモンズフェスタ2016「浪速お化髪行列!~節分魔除けの異形の意味~」を開催いたしました。

應典院のコモンズフェスタ2016の最終日の催しは、「浪速お化髪(おばけ)行列!節分魔除けの異形の意味」。節分の厄払いのために異装して参拝する儀式として、江戸末期から広まりました。新年へと世界の秩序が変わる不安定な時期に、当時の町衆が行った異装の風俗を再現します。当日はその歴史や意味を語りながらまち歩きを行うという企画でした。当日は男子が町娘に、妙齢の女子があんみつ姫のような町娘に、桃太郎にふんする子どもや、鬼、太夫、禿(かむろ)、妖怪など、原則、和装での色あでやかな様子が應典院の堂内いっぱいにあふれかえる一日でした。

浪速お化髪行列自体は8回目のプログラムですが、昨年から應典院を会場に行われており、コモンズフェスタ企画委員の死生観光家を標榜する陸奥賢さんが「トーク」の場を持たれています。昨年に引き続き、当日の行列(お練り)前にこのお化け行列の意味や太夫に関することをお話されました。以下は陸奥さんからの寄稿です。

「大阪、花街の文化に、かつて「お化け」というもんがありまして。元旦、節分の祭ですな。元旦、節分いうんはめでたい。年が明ける。ハレの日ですわ。せやけど、昔の人は数えで歳を経ますから、元旦、節分になるいうことは、ひとつ歳を取る。歳を取るということは、それだけ、一歩、死に近づく。「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」。一休宗純の狂歌ですが、要するに元旦、節分いうんは「ハレとケ」が一緒くたの日なんですな。福と鬼が一緒くたにやってくる。せやさかい「福は内、鬼は外」と豆をまく。福だけ中に入れて、鬼はカンベンというわけですが、こういうのは一年の中でもかなり珍しい日なんですな。

それで、こういうハレとケが一緒くたにやってくる日に、男は女になり、女は男になり、幇間は旦那になり、番頭は丁稚になり、人間は異類になり、生者は死者になり…と「普段の自分ではない何者か」になることで、厄やら鬼やらはそちらの「普段の自分ではない何者か」に被ってもらい、幸やら福やらは「普段の自分」に頂こうというのが、花街の「お化け」なわけです。

近代というんは「自分の意見をもて」「個を尊重しろ」「近代的自我を確立せよ」とか教育されます。しかし「自分」「個」「自我」なんて曖昧模糊なもんで、生きていく上では、なんの拠り所にもならんのですわ。事実「お化け」をすると、あっというまに人間は「普段の自分ではない何者か」になってしまう(コスプレ趣味の人や腐女子のみなさんもこうした経験はしてるはずw)。こういう経験は大事です。近代的自我なんて、なにかをキッカケにして、簡単に揺るがされるし、ほんま人間なんて、ちょっとしたことから、なにをしでかすかわかったもんではない。犯罪というんも、いまはたまたま犯していないが、いつ、なんどき、なにかの拍子に、ふと魔が差して、やってしまうかわからん。それぐらい、自分とか個とか自我というもんは弱い。それをやらないでいられるんは、たまたまの幸運であるし、なにか大きな存在のおかげや…というんが浄土宗でいうところの「他力」という発想の原点ともいえます。

ちなみに、この「他力」とはベクトルが全く正反対の位置にあるんが、新自由主義者が大好きな「自己責任」っていう情け容赦ない断罪の言葉やと思ってますが、阿弥陀さんの「他力」を説く浄土宗のお寺である應典院がコモンズフェスタ(共有の祭)を標榜して「お化け」をやる…というんは、ぼくはこうした意味で、オモロイなあと思ってます。

写真は應典院コモンズフェスタ2016の企画「浪花お化髪行列」にて、ぼくが太夫のお化けをしたみなさんに夕霧太夫やら新町遊郭の話をしているところ。個人的には楽しい時間でした。みなさん、ありがとうございました。