イメージ画像

サリュ 第101号2016年1・2月号

目次

巻頭言
レポート「セッション!仏教の語り芸」
コラム 武田力さん(演出家、俳優)
インタビュー 直林不退さん(浄土真宗本願寺派淨宗寺住職)
アトセツ

冒頭文

わたしには「これを説く」というものがない。『スッタニパータ』より

report「芸」

見えない世界を可視化
語り芸の魅力を探る

系譜をひもとき型をみる

霜月から師走にかけて連続講座「セッション!仏教の語り芸」を開催いたしました。2013年度に長野県の長谷寺より岡澤恭子さんをお招きし、お釈迦さま涅槃図の絵解きの会を催しましたが、今年度の取り組みは関心を諸芸能の世界へと広げ、語りと仏教との関わりを深めました。3回連続での展開にあたり、各回の監修と進行は宗教学者の釈徹宗先生にお願いしました。
今回、古典と現代の新たな表現の連続上演が最大の特徴でした。そのため、11月25日には節談説教と現代説法パフォーマンスから「教え」に、12月2日は落語と現代詩から「弱者」に、12月5日は能楽と浪曲から「死者」に、それぞれ踏み込みました。そもそも、落語や能楽は仏教の説教や読経から産まれたといいます。そのためシリーズの副題に「伝統VS創造」と掲げたとおり、諸芸能の根源に焦点を充て、語りの型と可能性に接近しました。
各回とも濃密な場が生まれました。第1回では節談説教研究会副会長の直林不退さんと、北海道在住の浄土真宗本願寺派僧侶らによる映像と音楽を巧みに織り交ぜた朗読劇や仏教讃歌コーラスのグループ「チームいちばん星」の皆さんとのセッションでした。節談説教とは、七五調による独特の節回しで、大衆の感性に情念で訴える布教の技法です。当日は、直林さんに源氏の後に平家に使えて法然上人の門に入った鎌倉時代の武将・熊谷直実の物語を、チームいちばん星には牛の解体を扱った朗読劇などを披露いただいたのですが、意外なのか当然なのか、双方ともに説教の「五段法」に沿っていたことを、終演後のトークで確認しました。

語りの核心にあるものは

豊かに生きるとは、社会的・経済的に成功することだけではないとの教えを紐解いた第1回に続き、第2回ではまちに行き交う人々の暮らし方に迫りました。まず、長らく應典院で「詩の学校」を主宰するココルームの上田假奈代さんが、活動の拠点としている釜ヶ崎の風景を詠んだ詩を朗読、続いて桂文我師匠による「弱法師」の一席でした。この回のテーマは「弱者」でしたが、弱さは誰しも持つものであり、むしろ強がる人の振るまいによって人は傷つき傷つけられているのではないか、といった問いが語りを通じて浮かび上がりました。同時に、それぞれの語りを通じ、まちの風景が想い起こされる回となりました。
3回連続の最終回は中世生まれの能楽と、近代生まれの浪曲との競演でした。「浪花節」で知られる浪曲には死者が登場しない故、沢村豊子師匠の三味線のもと玉川奈々福さんが「陸奥間違い」で田舎から来た使者を語ると、能楽師の安田登さんが「隅田川」と「夢十夜」で死者を語りました。かたや近代の自我、かたや無我の境地に迫るものでした。ちなみに、能のワキ方とは脇役ではなく死の生の境界線を演じる役である等、トークでも深みがありました。
今回の企画は釈先生による仏教学舎「練心庵」との共催でした。また第3回には下寺町の浄土宗寺院の若手僧侶の会「三帰会」による声明も披露され、多くの思いと語りがこだました3日間となりました。今後も多くの語り手と共に、型に埋め込まれた物語の意味に向き合って参ります。

小レポート

誰かの死と生に触れ
私の死と生を感じる

満月動物園の死神シリーズ第1弾「ツキカゲノモリ」から1年、5タイトル連続上演の最終回となる「ツキノヒカリ」で、12月18日よりコモンズフェスタ 2016がスタートしました。今回は「死と生への身構えの回復―これは『私かもしれなかった』」と全体テーマを掲げ、自らの死生観を感じられる場づくりを心がけています。今年で4回目となる24時間トーク「如是我聞」や、space×drama2009協働プロデュース選出劇団baghdad caféの公演「会いたくて会えなさすぎるあなたたちへ」も、それぞれ12月中に行われました。
年が明けて、1月にも様々な場が設けられます。9日から武田力展「そらには、やんわり、うかんでる」を開催する他、今年度を通したイスラームへの取り組みの集大成として、16日に「懐徳的イスラーム」という場を開きます。共有の財産を分かち合うお祭りは、24日のクロージングトークまで続きます。皆さんのお越しをお待ちしています。

小レポート

他者を呼び込む語りの力

12月5日、上町台地マイルドHOPEゾーン協議会主催の「オープン台地in Osaka vol.6」参加企画として、「放談会 伝統の語りと私たち」が開催されました。同企画では、観光家の陸奥賢さんをガイド役に、能楽や落語といった「伝統の語り」のエッセンスを借りたあそびを実践しました。
「伝統の語り」とは「他者に成り代わって騙る(語る)技法」ではないだろうか。陸奥さんのそんなお話に導かれて、参加者同士が禅画の中の人物に成り代わって語る「禅画騙り語り」を楽しみました。同日開催の「セッション!仏教の語り芸」とも響き合う企画となりました。

小レポート

ちがいを越えて、ともに生きる

過日、コリアNGOセンター代表理事の郭辰雄さんをお迎えし、ヘイトスピーチについて研修を行いました。日本で起きた事例の映像を交えながら、ヘイトスピーチは人種差別であること、また、国際的な人種差別の問題についてお話を伺いました。そして、「差別の思いを止めるために、異なる他者を受け入れて共生を目指す」という見地を示していただきました。
應典院ではこれまでも職員研修を行ってきており、今回は表現の名を借りた暴力について、職員が見識を深める機会となりました。これからも應典院での日々を、丁寧に重ねていけるよう努めて参ります。

コラム「空」

いま かんがえる

『そらには やんわり うかんでる』は小学生とのワークショップから構成される映像作品。かつて横浜でも実施しました。2011年3月11日を経たわたしたちは、なにを考えられるのか? 砂場を「津波で凹凸が露わになった土地」に、生きる限りは大人へと成長しなければならない彼ら子どもの玩具を「街の素材」に見立て、平均寿命までの「未来」と、その人生における「問い」を彼らに渡しました。
当時のわたしはこう書いています。「不思議なのは未来を問うているはずなのに、彼らの表情や言葉の隙間に現在が立ち現れてくることです。希望や不安があちこちに滲みます。大人以上に実感できているのかもしれません、この空の続きに被災地の現実があることを。彼らが未来を想像するとき、背後の空と繋がって見えたりします。『そらには やんわり うかんでる』と。」
7歳児を中心にパドマ幼稚園内で実施した今回のワークショップ。子どもたちは素直に柔軟に「問い」へ取り組んでくれました。その映像からは子どもを取り巻く環境、現在の価値観を感じ取れます。それは彼らが社会的弱者であることと無関係ではありません。子どもは大人を見ながら生きていく術を得て、大人へと成長していきます。鏡のように子どもは大人を、現在を映すのです。
国連によると、現在7歳の子どもの平均寿命は92.3歳。彼らに手渡した「問い」は、5年後の12歳の時点についてのものから、東京オリンピック開催の予定であった1940年以降の歴史に基づいて構成されています。つまり、この作品では「1940年に12歳」として、92年を生きる子どもたちに1940年から2020年までの過去を含む時間を未来として問いかけています。
さて、わたしたち大人はその応えから、なにを考えるのでしょう? 過去を引き継ぐわたしたちは子どもたちにどんな現在、どんな未来を手渡そうとしているのでしょう?

武田力(演出家、俳優)

幼稚園での勤務を経て、俳優として演劇カンパニーのチェルフィッチュに参加。ヨーロッパを中心に多くの都市で公演を行う。近年はアジア各地に継承される民俗芸能の構造から作品を創作。「糸電話」や「踊り念仏」を素材に、観客自身を俳優と捉え、日常と異なる自身や世界への想像を促す「きっかけとしての演劇」をつくる。今後はフィリピンの演劇祭「Karnabal Festival」との3年をかけた国際協働制作を予定。1月9日から24日まで、コモンズフェスタ2016参加企画『そらには やんわり うかんでる~武田力展』を應典院にて開催する。

interview「振」

直林不退さん(浄土真宗本願寺派淨宗寺住職)

布教の実践と研究を両立する僧侶が、
語りの本質について考察する。
現代における「伝統的な語り」とは。

「セッション!仏教の語り芸」の第1回「教えを語る」では、相愛大学客員教授も務める直林不退さんに、浄土真宗に伝わる節談(ふしだん)説教を聞かせていただいた。浄土宗ゆかりの演題である「観経疏説教」は大変雄弁かつ感動的なもので、その有り難さからこぼれる「受け念仏」が会場の隅々から発せられていた。今回、現代における節談説教の意義などについて、直林さんにお話を伺った。
「当日も申し上げたように、應典院は非常に語りやすい場だと感じましたし、聞きに来てくださった皆さんが心から教えを求めていらっしゃる、その想いが伝わってきました。普段とはちがう、良い意味での緊張感の中でお話させていただいたと思っています。節談説教は浄土真宗で花開きましたが、実は浄土宗に由来する阿居院流説教が母体となっています。浄土宗のお寺で法然さんについて語るのはおこがましいのですが、大変有り難いご縁をいただきました。」
布教使である前に、もともとは説教の歴史の研究者であるという。「仏法が人々にどんな生き方を指し示してきたのか、仏教と社会の接点を自分なりに捉え直すことが研究課題としてあり、布教というテーマも扱っていたんですね。ところが節談説教が好きなもので、はじめは自分の寺でお話させてもらっていたのが口コミで伝わり、色んな所から声をかけていただくようになりました。」
節談説教との出会いは、仏教者として大きなショックを伴うものだった。「29歳で寺の住職を継いだ当時、尊敬する学者の方々にお説教に来てもらっていたのですが、年々お参りが減っていくんです。ある檀家さんに尋ねたら、『同じ時間に日本シリーズやっててな。日本シリーズのほうが感動するもん』と言われ、お寺に一番欠けているのは感動なんじゃないかと悩みました。そんな時、廣陵兼純先生の節談説教を聴聞する機会があって、本当に衝撃を受けました。仏教に明るくない人も涙を流しながら聞いていらっしゃるんですね。」
仏教の布教には、学問的に理解する次元と、情の部分で共感する次元とが存在する。「いつの時代でも、この二つの次元が車の両輪のように並走しています。どちらが欠けてもだめなんですね。ところが明治以降、西洋の合理的な考え方が入ってきて、人々の情念に訴えかける節談説教は片隅に追いやられていきました。学問を軽視することは誤りですが、もう一方も再評価していくべきではないでしょうか。節談説教は語っている自分自身に響くものでなければなりません。語る側と聞く側がひとつの場でともに響き合う、つまり『共振』を喚起するのです。」
価値観やニーズが多様化する今、様々な語りのスタイルが必要とされている。「決して、節談説教が全てではありません。様々な語りの中のひとつとして、伝統的な説教もあっていいと考えています。現代では、いきなり浄土とか仏さまと言われても、受け入れられない方も多くいらっしゃるでしょう。私も挫折することがありますが、誠心誠意語らせていただくことで、少しでも響くものがあるかもしれないし、いずれご縁が熟する時がくるかもしれない。何か一つでも持って帰っていただけたらと思って、懸命にお取り次ぎさせていただくのみです。」

〈アトセツ〉

冬将軍とはよく言ったものである。12月の中旬まで、人工スキー場でさえも、年末の利用は難しいと伝えられていた。しかし、ちょうどコモンズフェスタが始まる頃、激しい冷え込みが襲ってきた。赤道付近の海流の変化によって南米付近の太平洋東部で海温上昇が起こるエルニーニョ現象が影響しているという。
そもそも冬将軍とは、ヨーロッパを征服したフランスの皇帝ナポレオン1世も、ロシアの寒さと雪には勝てなかったことに由来するという。自然の猛威は恐るべしである。それから200年が経ち、自然科学の進歩は、どこかで観察主体である人間と観察対象とする自然とのあいだに一線を引かせている。ただ、その反動として、自然科学が発達した20世紀の終わりになると、社会や教育や心理といった人々の動きに関わる現象に対し、経験からの学びを得ようと、人間科学という分野が立ち現れるようになった。
今年度のコモンズフェスタのテーマは「死と生への身構えの回復」である。昨年は阪神・淡路大震災から20年にこだわった。今年度も尼崎脱線事故から10年、また東日本大震災から5年など、一定の区切りを迎えるが、なぜ私は今、ここを生きているかに関心を向けた。その企図は副題である「これは『私かもしれなかった』」にも重ねた。
季節は巡る。冬将軍の後には春一番が控えている。しかし、今の日常が明日も変わらず到来する約束はない。今年もまた、有縁のみなさまが安らぎにあふれますように。(編)

PDFダウンロード

PDF版ダウンロード(PDF形式:1.5MB)