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KMA2016REVIEW 秋田光軌

「キッズ・ミート・アートに寄せて」
秋田光軌(浄土宗應典院主幹・應典院寺町倶楽部事務局長 )

子どもたちは、幼く、傷つきやすい。世界に対して驚き、問いを発し、何かに懸命に触れようとして、その存在に大小さまざまな裂傷がつけられる。時には痛みや戸惑いを伴いながら、そこに刻まれた亀裂から、生命はあるかたちをもって漏れ出していく。傷の深浅や種類や位置に応じて、人は自身の生を表に現す素地を身につけるのだろう。
表現することは、おそらく「私は~できる」という可能態ではなく、「私には~しかできない」という被ったものへの気づきからもたらされる。それは消極的な諦念とはちがう、自由と必然を含む積極的な行為である。固有の表現があらためて世界に関わる過程で、裂傷の一部は癒え、一方でまた新たに傷つけられ、私たちの生のかたちは複雑に変容しつづける。

大人たちは、相変わらず傷つきやすく、それゆえ頑なであることを強いられる。正しい発言や振る舞いが要求されるこの社会で、子どもたちが健やかに生き抜けるようにと、子どもらしい未熟さを抹消して、立派な社会の構成員に導いていく。ブッダの非人間的なおしえがそうであるように、世界に対する驚きや問いかけもまた、一切の社会的有用性を持っていないから。大人たちは、「何の役にも立たないことを尋ねるんじゃない」と子どもたちに嘯き、あるいは自らの奥底で反響する「声にならない声」に耳をふさぎ、世界と親しんだ原初の時を忘れていく。
しかし、「子どもは、大人によって産みおとされ、庇護される存在なのだ」と、軽はずみに思いこんではならない。全ての大人は、かつて子どもによって産みおとされ、子どもによって庇護されたのである。大人こそ、まぎれもない「キッズ」の一員なのだ。

多種多様な媒体を通して、この私の生を――そして生に接している死をも――吟味し、世界に実現する技術。それがアートである。思想や行為様式、仏教美術などにおいて、独特の展開を遂げた日本仏教そのものを、日本人が長年にわたり培ってきたアートの成果として捉えることも、あながち間違いではないだろう。もちろん、アートは伝統の単なる反復運動ではない。能動と受動の緊密な結合を知っている、そのような体勢からのみ、美しい技芸は繰り出される。
ご本尊が見守る宗教空間で、私たちは世界に対して驚き、問いかけ、触れることができただろうか。ゲストが創造する状況と出会い、率先して傷つくことができただろうか。限りないいのちと光のはたらきを示す仏にとって、「子ども/大人」のあいだを断つ線分など、あるはずもないのである。

【執筆者プロフィール】
秋田光軌(あきたみつき)
1985年、大阪生まれ。浄土宗大蓮寺副住職、浄土宗應典院主幹・應典院寺町倶楽部事務局長。大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了(臨床哲学)。仏教のおしえを伝えながら、死生への問いを探求する場づくりに取り組んでいる。

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