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11/11 お寺MEETING vol.7「〈寺葬〉リバイバルプラン~古くて新しいお葬式のカタチ」を開催いたしました。

去る11月11日(金)、浄土宗應典院が主催する、お寺MEETING vol.7「〈寺葬〉リバイバルプラン~古くて新しいお葬式のカタチ」を大蓮寺本堂にて開催しました。お寺の本堂でのお葬式「寺葬」を通して、葬儀の意義を改めて見つめなおす今回。大蓮寺・應典院住職の秋田光彦をモデレーターに、ゲストには一般社団法人お寺の未来代表理事の井出悦郎さん、龍谷大学社会学部准教授の猪瀬優理さんのお二人をお迎えしました。

冒頭、クリエイティブスタディ代表取締役の岩貞光祐さんより、葬儀の現状に関するプレゼンテーションがあった後、井出さんは「お寺葬の意義と課題」について、現状のデータ・アンケート分析から鋭く展望を読み解かれ、また猪瀬さんは「宗教の社会貢献と〈寺葬〉」と題して、「死の総合的変換装置」としての葬儀の役割を示されました。また休憩を挟んだ後半は、36名の参加者からのご質問もまじえて、3名でのセッションとなりました。

以下、今回の企画を終えた、秋田光彦住職からのコメントを掲載します。

多死・単身・貧困の時代、葬儀は福祉の一部となりつつある。誰もが弔われる権利がある。しかし、人はひとりでは葬れない。それは、現在の葬儀のありようを転換する契機となるのではないか。
先週、大蓮寺で「寺葬」を巡るセッションを行った。立場の異なる3人が議論を交わしたのだが、私の観点は(突っ込み不足だったが)「社会貢献としての葬儀」にあった。
以前も書いたので、詳細は省くが、現在の葬儀はすでにシステム破綻していると言わざるを得ない。儀式だけではない。葬儀に到る檀信徒や地域との帰属意識や信頼関係、その背景となる制度とか習慣とか、これらが終息しかかっている今、ただ会場を本堂に移したからといって本質が変わるわけではない。伝統や荘厳は大切だが、価値の押しつけになってはならない。
私の考える寺葬とは、葬儀を中継点として、医療・福祉・看取り・葬儀・埋葬・供養と連続するトータルなケアのありかただ。
ガンや認知症の時代、人は緩慢な死の時代に生きている。地域包括ケアシステムは、住み慣れた地域で最期までいかにその人らしく暮らすかを勧めているが、「医療」「福祉」だけがケアではない。単身が加速する現代、亡くなった後について生前から話し合うケアがあるべきだろう。そこに僧侶が介在するのである。
「ケアとしての生前関与」には、相談や交渉も含まれる。費用の話を聞かれて、葬儀社に丸投げしていたら、元の木阿弥である。寺葬の場合は、きちんと費用項目を説明できる用意が必要だ(その説明を誰がやるかは別にして)。とくに匿名性が高く流動している都市部の人は、相談や交渉の受け入れがなければ、ネットに頼る。あとは
カネを払いさえすれば、何でも対応してくれるのである。
もっと広報しろ、といっているのではない。われわれの寺葬は社会貢献なのだから、丁寧な地域社会との生前関与を仕切り直すのだ。お寺で終活セミナーを開いてもいいだろう。あるいは、地域の関係資源、病院や福祉施設、高齢者住宅などと葬儀のネットワークをつくってもいいかもしれない。お寺とは別の中間組織(NPOや一般社団)も可能性は高い。それぞれが寺葬に到るアウトリーチである。
イオンや小さなお葬式が席巻して、お葬式業界には底なしの「価格破壊」がおきている。お布施も例外ではない。Amazonのお坊さん便もそこから派生しているのであって、葬儀を制度ごとやり替えるしかない。誰がそれをやるのか。寺葬はその潜在力を秘めているのである。
もうひとつ、問いかけがある。宗教の社会貢献について、世俗化
・脱世俗化の問題を扱ってきたが、葬儀をインセンティブとして、もし新たな地域医療・福祉間のネットワークができたとしたら、さて、これを世俗化というのだろうか。

付記:当日のセッションでは、私以外はみな30代、40代の人たちだった。若い才能のある人たちが寺や生死について語る。それだけタブーがなくなり、身近になったということか。おもしろい時代になったと思う。