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3/16 いのちと出会う会 第156回「生きること死にゆくことを見つめる」 を開催いたしました。

去る3月16日(木)、應典院研修室Bにて、いのちと出会う会 第156回「生きること死にゆくことを見つめる」を開催いたしました。今回は、ゲストに大河内大博さん(いのち臨床仏教者の会副代表、浄土宗願生寺副住職)をお招きし、布教や伝道を目的とするのではなく、仏教チャプレンとして病院などの現場で患者の心の苦しみに寄り添ってこられた立場から、「大切な人との死別」をテーマにお話いただきました。

みずからの最期について取り組む「終活」はメディアなどで取り上げられ、「自分のお墓やお葬式をどうするべきか」といった話題は、多くの人の関心を集めています。しかし、明確な自己実現を目指す「終活」とはちがい、遺された者が死者に対して問いかける営みには答えがなく、終わりがあるわけでもありません。遺された者は「あの人はどこへ行ってしまったのか?」という問いを繰り返し、その不在を経験します。死者について語ることは、まだまだ社会では一般的ではなく、むしろ隠されてさえいるのではないか、と大河内さんは問いかけます。

それでは、死者とはどのような存在でしょうか。批評家の若松英輔さんによれば、死者はまるで「不可視な隣人」のような存在ではないかといいます。手の届かないほど遠くにいて、だけれども誰よりも自分の近くにいてくれている人。そのような両義的な存在として、死者は私たちの前にあらわれるのです。そんな死者の存在を、「さっき物音がした。あれはきっと帰ってきたんだ」とか「困ったときは不思議と助けてくれるんです」というように、暮らしのなかで様々に感じようとするところに、私たち人間の生きる智慧があるのではないかと、大河内さんは語られました。

大河内さん自身の経験では、奥さんのおばあさんが亡くなられた際、お葬式でお経をよんでいたら、寒い時期にもかかわらず蝶々が飛んできたそうです。その時に「この蝶々がおばあさんかどうかは分からないけれど、きっとおばあさんだと思うようにした方が面白い」と感じられたことを話されました。死者とのつながりを物語にのせて語り直すことで、人はその悲嘆をありのままに受容し、生き抜く力に変えていくことができるのかもしれません。

亡くなった人と、今ここで大事なきずなを結んでいるということ。その事実は、時に生きる力にもなれば、自分をがんじがらめに縛ってしまうことにもなりえるものですが、死者とのつながりを否定するのではなく、どんな風につながりを結んでいるのか、折に触れて耳をすませることが大切だといいます。人々が悲しみとともに生きていくことに寄り添うことがご自身のライフワークだと、静かに語られる言葉はとても力強いものでした。

講演後、参加者との質疑応答の場面では、「いくら終活で自己実現を準備したとしても、最終的に死に方を自由に選択することはできません。死もご縁であり、それを決めるのは仏さまの領域なのです。その人自身が尊厳を守っているのであれば、どんな死に方であっても、第三者の評価に関係なく、自分でマルをつけてあげることが大切です」との大河内さんのメッセージに、多くの方がうなずきました。

いのちと出会う会、次回「児童養護施設の子どもたちの心の叫び」は、同会場にて4月20日(木)18時半からの開催です。