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8月4日、「詩の学校」特別編「それから」が開催されました。

8月4日、「詩の学校」特別編「それから」が開催されました。

2010年8月4日詩の学校特別編「それから」於:大蓮寺墓地

8月4日、18時半から、年に1度の「詩の学校」スペシャル、お盆特別編「それから
http://www.kanayo-net.com/poem_school/ 」が開催されました。主宰する詩人の上田假奈代さん曰く、「詩」と「死」は同じ「シ」。しかも、「ごんべん」に「寺」と書いて「詩」という字ができあがっています。そんな風に、お寺と詩と死との不思議なつながりの中で、お盆の時期にその1年を振り返り、それぞれに巡った「死」に思いを馳せるべく、大蓮寺にて秋田光彦住職による法要の後、墓地にて詩作・朗読のワークショップが行われました。
参加者される方は、まずは應典院のロビー集合し、大蓮寺の本堂にて浄土宗の法要に参加しました。全員で念仏を唱えたあと、秋田光彦住職から法話がありました。今年の法話は、宮崎県の口蹄疫の災禍を題材に、尊いいのちを奪いながら生きている私たちの存在の意味について語りかけました。

あたたかい場所、響くことば。

法話の後、大蓮寺の墓地にて詩作が行われました。蝋燭のあかりが無数に灯る中で、身近に亡くなった方、随分前に亡くなった方、それぞれに思いを重ねて、詩作がなされてきました。40分程の短い時間のなかでの詩作でしたが、墓地の真ん中に一同に会し、順に読み上げられていくことになりました。ある人は淡々と朗読、ある人は読み始めた瞬間に感極まって涙をする、またある人は朗読を続けるなかで即興でことばを重ねる、それぞれにとっての「死」と、それぞれの「生きている」ことの決意や覚悟が、ことばと重ねられつつ、静寂の墓地に響いていきました。
次々と参加者が朗読を続けた後、最後は上田假奈代さんによって「生まれて死にゆく人よ 死んで生まれてくる人よ」と題した詩が読まれました。ちょうど、詩作をされているとき、都心のネオン等で明るい夜空の中に、流れ星を1つ見た気がした、とのこと。そうしたところで読まれた詩。「墓石に光が写り込む。照り返しているのは光で、いのちだと思う」と「昨日から、ずっと前から続いている空よ。死んで生まれて死んで生まれて、人は空の中に生きている」という節が印象的でした。
朗読の後には應典院の研修室Bで交流会が行われました。乾杯の後は、参加者された方から順に感想が述べられました。死を思うからこそ、生を考える。他者のことを思うからこそ、自分のことを考える。そうした、いくつもの「反転」が起こった「詩の学校」お盆特別編、また来年も、今年のような味わい深い場が生まれることを願っています。

  • 「さみしくもなく、かなしくもなく、ことばが出てくるお墓でした」

  • 「最近、電車が遅れることに対して、いろんな思いを抱くようになりました。私の家の近くの大正駅では、昨年、高齢の女性が2人で手をつないでホームに飛び降りるという事件があって、いつか私もそういう場面に居合わせるのではないかと、駅のホームに立つと、何か思い詰めたような表情をしている人はいないかと目を向けるようになりました。朗読の際、泣くつもりはなかったんですが、もしかしたら今日は泣きたかったのかもしれないなと思っています。」
  • 「横浜から来たのですが、死について考えると無限に思ってしまうことがあるので、シンプルなことを考えようと思ってつくりました。今日、始めてきたのですが、素敵な場所ですね」
  • 「一人だったら今日の詩はできていないな、と思っています。50歳を過ぎて、何をして生きよう、ではなく、何年生きようか、と考えるようにもなってきました。ふと思うと、最近同窓会が増えています。元気なうちに会っておこうと考える人たちが多いんでしょうね。そんなことなどを考えながら詩をつくっていたら、墓地の隣のマンションのあかりが灯った瞬間、あ、生きてるな、と感じました。」
  • 「2年ぶりにこの回に参加しまいた。夏の夜ですが、暑いというよりはあったかいという感じがしました。」
  • 「自分のまわりの死を思い出して書こうとしたら、むしろ書けかった。なので、思い出しながら、即興で朗読していきました。で、思い出しながら、たいして供養をしていないことを思い出しました。」