2010年9月20日開催・寺子屋トーク第59回「再生論」レビュー

寺子屋トーク第59回を終えて

北村 敏泰

應典院で開かれた「寺子屋トーク 葬式仏教再生論!」でコーディネーターを努めた。島田裕巳氏と秋田住職は「激論」も展開はしたが、葬送をめぐる日本仏教界の惨憺たる状況、大改造が必要であるという現状認識では、両者は一致していた。

葬式仏教を「成仏」させると言う島田氏が、僧侶としての立ち位置を鮮明にした秋田住職が葬式仏教を「上書き」する取り組みを進める実績を評価したことに、それが現れている。島田氏の「死にきる」という論議。それは、生も死も本質的に徹底すべきだということであり、そこに宗教、仏教の役割があるとの指摘だ。

興味深いのは、人間も仏教も「一度死んで再生する」、その「死」に仏教が切り結ぶ、ということが「フラクタル」な構造として提示されたこと。島田氏が「葬式仏教の絶滅」ではなく「成仏」という表現を敢えてしたのは、仏教の力による仏教の再生を主張している、と見るのは深読みに過ぎるだろうか。

もうひとつの深いテーマは、「個」と「関係性」だ。現在の葬送激変の主な要素は、「簡略化」と「脱宗教化」。両者は基本的に別の問題だが、現状では論議が混乱している。前者は単純に言えば「個の時代」の表れであり、その人がもし宗教的価値を重んじるなら仮に葬送を簡略化しても、そこに宗教性は出てくるはずだ。

一方、脱宗教化で言えば、「葬式仏教」は制度疲労をきたしていると言われ、確かに現状の仏式葬儀は形骸化し、本来の宗教的意義さえ喪失しているように見える。しかし実は、制度疲労をきたしているのは、「仏教」そのもの、厳密に表現すれば、「この社会での仏教の立ち現れ方のシステム」ではないか。

宗教の本来の務めとして、生きている人間の社会における「苦」、様々な問題に関わって人々に生きる指針を示すということを放棄し、生業としての葬祭業になってしまっているから批判されるのだ。仏教が人々の生にしっかり関われば、その先にある「死」を巡る問題、つまり葬送においても当然、深い関わりを持てるはずだ。

だが実は、「簡略化」の背景の「個の時代」こそ宗教の問題である。「自分らしく」「自己決定」を「個」の前提とするなら、例えば若者世代は、経済格差や逆に欲望を煽り立てる過剰な情報が溢れる社会で、孤独に震えながら何とか繋がりを求めてインターネットなどのバーチャルな関係にすがりついているかのようだ。そんな姿を見れば、とてもそれら社会的要因から自由に自己決定する状況にはなく、自立した「個」などは一種の「擬制」ではないかとも感じる。

高齢者にしても、家族的紐帯に渇望しつつも、様々な事情で「若い人に迷惑をかけたくない」と身を引く場合が多いし、これからの多死社会の推進力である団塊の世代も、「個」の追求ばかりではなく、「連帯」や「関係性」を求めて来たはずだ。「個の時代」は、実は心ならずも「孤の時代」に、言い換えれば、いろんな絆や縁が絶たれる「絶縁社会」になっている。

しかし葬送とは本来、死をきっかけに、その人の「関係性」や「縁」を総攫えし、その人の生の軌跡を辿り直すという意義のあるものではなかったか。トークで秋田住職は、「個の肥大化」に「2人称」を対置して警鐘を鳴らし、「墓友」の例も挙げて「関係性」を強調した。

イオンの葬式問題どころか近い将来、24時間営業のコンビニで葬式を扱うことになるとの予測もある。店員がマニュアル通り、「いらっしゃいませ。『直葬』のほうでよろしかったでしょうか」。ガラガラガラ(火葬炉から台を引き出す音)。「こちらがご遺骨のほうになります」などとなるのだろうか。

だが全国のコンビニ4万店より、寺の方が7万以上とはるかに数が多い。その寺の活動、ネットワークを、社会の様々な問題に向ければ、様々なことが出来る。

今夏、高齢者の所在不明や熱中症による独居死が相次ぎ、社会で孤立した若い親による幼児虐待死事件が問題になった「絶縁社会」。それを「有縁」「結縁」に呼び戻し、「個」を「関係性」に呼び戻すのが、宗教、仏教の力、役割であり、それが「葬式仏教再生」の大きな意味ではないか。

(きたむら・としひろ/ジャーナリスト)