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6/20 教育シンポジウム「幼少期のをどう育てるか~私立幼稚園・小学校における宗教教育の今~

台風一過の朝、パドマ幼稚園主催のシンポジウムが應典院で開催されました。
幼少期の宗教教育について3人のゲストをお招きして、様々な角度からのお話を聴く機会となりました。

ゲストには、四天王寺大学経営学部の教授でもあり、四天王寺学園の常務理事の塚原昭應先生、元関西学院の初代初等部部長(小学校校長)であり、現在はキリスト教学校教育同盟主事の磯貝曉成先生、そして應典院代表でありパドマ幼稚園の秋田光彦園長をお迎え致し、應典院主事の齋藤佳津子が進行を担当致しました。

「なぜ幼少期に宗教教育が必要なのか?」「これからの宗教教育の可能性・必要性」に的を絞ってお答えいただきました。

キリスト教・仏教の違いはあれども、それぞれに「宗教」の持つ力を幼稚園や小学校で伝えているのかという部分で共通するお話をお聞きすることが出来ました。

とくに共通した部分をお伝えするとすると、

●他者・他力への出会い
現在は、「自分・自己実現・自己決定・自己責任」と「自分」に焦点があたる時代。現代の子どもは「他力」に出会ってないのではないかという秋田園長の問いがありました。宗教の大きな力は「他の力で救われる」「誰かによって生かされている」ということに気づきがあること。「縁」の中に生かされている自分を知ることだと。

●依存と自立の狭間にある幼少期にこそ宗教教育
中高の先生を30年以上なさっていた磯貝先生からは、「その時代では既に遅い」と小学校教育のフィールドに入ってこられました。教育には見えるものと見えないもの両方が必要ですが、「見えないもの」に気づくことがもっとも大事であるというご指摘と、両親や友人など、子どもの目から見える<横軸>と、祖先や古来から続く大自然など、見えない<縦軸>の両軸がそろってこそ、子どもは育つのではないかという秋田園長のお話が交錯していました。

●道徳教育と宗教教育との違い
秋田園長は「宗教教育というのは、時間のスパンが長い」とまず指摘。呼応するかのように、磯貝先生は、「ずっと後になってから、あの時の言葉が生きてくるもので、その先を信じていくことができるのが宗教をもった人である」と。また、道徳の時間は善行や倫理的な面を教えるが、宗教教育は道を外しそうになる人間への心や目線に気づくこと。人間ほど不完全なものはないと反省したり、懺悔したりする時を持つことが出来ることが大きく違うというお話に納得しました。

●違いをみとめあうことから始まる
塚原先生方がおっしゃった「それぞれの子どもの違いを受け止め、その子なりの花を咲かせること」が「和を以って尊しと成す」につながること、また、仏様になる種はすべての人や物にも宿るという「一切衆生悉有仏性」という言葉の意味について、「チューリップの花」やSMAPの歌う槇原敬之さん作詞の「世界にひとつだけの花」の歌詞に通じることをお話下さいました。

今回はそれぞれキリスト教と仏教の宗教者の先生をお呼びしましたが、これらの宗教の出発点は異なりますが、自己を超えて人を救う、利他の行いをすることなど、到達点は同じではないかと塚原先生は説かれました。また、磯貝先生はキリスト教でも仏教でも「ありがとう」という言葉を使う教育であり、根底的なものは同じなのではないかという言葉が印象的でした。

今回のシンポジウムの聴衆者の多くは幼稚園から小学校の子どもを持つ保護者の方。子育てに日々迷い、どのように子どもたちを育てたらよいのかを悩む声も途中の質問用紙から伺うことができました。

磯貝先生が「怒ったり、切れそうになったら、3回廻ってワン!と言う」と本当にやって見せてくださった時には、聴衆者から大きな笑いが起きましたが、我々子どもを持つ保護者が、時間と心の余裕を持ち、子どもたちの「見えないところ」への眼差しが持てるように、秋田園長がおっしゃった「子どもを通して親が育つ」ことを再認識する時間だったのではないでしょうか。