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2017/5/25 なぜ、浄土宗のお寺で演劇なのか~應典院舞台芸術大祭の開催にあたって~

5月12日(金)より、應典院寺町倶楽部主催の演劇祭「應典院舞台芸術大祭space×drama○」がはじまりました。2003年から浄土宗應典院にて実施してきた演劇祭のフィナーレにして集大成となる今回、無名劇団、匿名劇壇、コトリ会議、満月動物園、May、遊劇舞台二月病と、これまでの優秀劇団による6公演が6月25日(日)まで行われています。(その他関連企画など、詳細は應典院舞台芸術大祭space×drama○公式サイトをご覧下さい)

應典院の仏教寺院としての理念に賛同し、「應典院らしい場のひらき方」を模索してきた應典院寺町倶楽部は、およそ20年にわたって特に演劇表現に焦点をあててきました。一体なぜ、浄土宗のお寺で演劇なのか。

以下、應典院主幹・應典院寺町倶楽部事務局長の秋田光軌が、仏教と演劇の関わりについて、2016年に大阪日日新聞に寄稿した文章を再掲いたします。この機会にお目通しいただき、ぜひ寺の演劇祭のフィナーレに足を運んでいただけたらと念じています。


「葬式をしない寺」浄土宗應典院は、かつてお寺が担っていた地域文化拠点としての役割を果たすべく、1997年に再建されました。この20年、仏教はもちろん、教育やケア、現代アートなどに関わる多様な実践が行われてきましたが、なかでもひときわ目立つのが演劇です。應典院舞台芸術祭space×dramaを長年開催するなど、今や演劇公演を行う場としても定着し、数多くの若者が訪れています。私自身、仏教と演劇とは底の深いところでつながっていると感じているので、今回は浄土宗の念仏のおしえを通して、その接点を探りたいと思います。

「心から我が名を称(とな)えるものは、誰であろうと必ず救う」と誓いを立てられ、西方極楽浄土を建立された阿弥陀仏。その阿弥陀さまに思いを寄せて、南無阿弥陀仏と称えることを、念仏といいます。「なむあみだぶつ」「なんまんだぶ」と皆さんも耳にされたことがあるでしょう。浄土宗を開かれた法然さんは、念仏は誰でも簡単に行うことのできる「易行」だと説かれましたが、現代人にとってそう易しくはないようです。なにせ阿弥陀仏にリアリティを感じられない多くの人にとって、実在すると証明できない対象に思いを寄せて称えるのですから、相当に高いハードルであることは間違いありません。

しかし、ここで目を向けるべきは、法然さんが「念仏を称えるのに完璧な信心は必要ない」とおっしゃっていることです。自分の都合や煩悩を捨てることができず、どうしても阿弥陀仏を信じられない私たち。驚くべきことに、そんな私たちのためにこそ、念仏のおしえは説かれています。私たちは「信じているから念仏を称えられるのだ」と考えがちですが、そうではなく、念仏を称えるからこそ信心が育まれていくのです。念仏の道を選び取るのは、信心の有無にかかわらず〈今、この私〉であり、重要なのは〈あたかも完璧に信じているかのように〉称えつづけることだというわけです。

このように考えると、念仏とは極めて演劇的な実践だという気がしてきます。俳優たちにとって、自分の演じる物語が実話なのかフィクションなのかは問題ではありません。彼らはただ真摯に台詞を声に出して稽古するのであり、架空の登場人物が発するその言葉が、時に舞台上でとてつもない真実味を帯び、本人を含めた全ての人の心を打ちます。私たちも「南無阿弥陀仏」という台詞をただ称え、阿弥陀仏の物語を真摯に演じるだけでよい。現代人の宗教に対するイメージからすれば、少し意外に感じられたでしょうか。

ところで、家庭や職場、あるいは学校で、何の役も演じていないと言い切れる人間が、はたして存在すると思われますか。身の丈に合っていない物語をいつのまにか演じさせられ、自分や他人の生き方をその物語にはめ込もう沿わせようと必死になる。無宗教といわれる日本のそこら中で、今日も起こっていることです。阿弥陀仏の物語を演じることは、実は〈私の物語〉を探し出す歩みなのかもしれません。

秋田光軌

 

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秋田光軌
(浄土宗大蓮寺副住職)