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6/1 住職コラム:表現と社会変革~應典院から若者の20年史を見る~

◆日本一若者が集まるお寺

「日本一若者が集まるお寺」とは、應典院の別名である。そのフレーズだけ聞いていると、にぎやかなイベント寺院を連想されるかもしれないが、実態はまるで違う。ちょうど90年代は「失われた十年」の渦中にあり、00年代にはニート、フリーター、パラサイトなど社会的弱者としての若者像が流出して、自己責任、成果主義といった「若者切り」が日常化した、そういう時代のただ中、このお寺は生まれた。
私は社会学者ではないから、そういう変容について詳細を述べる立場にない。しかし「日本一若者が集まるお寺」という祝祭的キャッチフレーズとは裏腹に、このお寺が、弱者としての彼らの生き直し、また社会参加の場となってきた歴史を書き留めておかねばならない。寺は、儀礼や供養の場である以上に、生き方を問い直す場でもあるが、現代の若者を相手に20年スパンで併走してきた寺は、應典院以外にはない(と思う)からだ。

97年再建当初から、若者支援(そういう言葉は嫌いだが)を志していたわけではない。後述するアートセンターとしての役割もそうだが、多くは意図せざるものが時間推移の中で、自然発生してきた。当事者たる若者たちこそ担い手であって、むしろ「場」として触発するほとんどすべてを受容してきたことが本領であったのだろう。どんな相手をも忌避しない、自在な「場」の特性というべきか。いや、最初からこの場の目的とか意味づけなど試みなかったから、應典院は「開かれたお寺」になり得たのだと思う。

◆演劇をコミュニティへ開く

少し歴史をふりかえっておきたい。
97年再建当初から、「若者のお寺」を標榜したつもりはない。それが決定的になるのは、「演劇の應典院」「NPOの應典院」が定着する99年以降である。そのための「動員的仕掛け」として、97年10月に第1回の舞台芸術祭を、98年11月には第1回コモンズフェスタを開催している。舞台上で、あるいはコミュニティにおいて、「表現」を手がかりに「生き直す」若者と出会ったのもこの頃だ。担い手であった彼らは、いわゆる就職氷河期世代であり、格差社会の申し子であったことも特記しておくべきだろう。この二つの企みは、以後途切れることなく現在まで続いている。
演劇は宿命的に、劇場という閉じた空間で演じられる。それを暗転から白日の元へ、地域コミュニティへと拡張したものが、アートとの出会いであった。2000年11月のコモンズフェスタ「それぞれの歩き方」では、それまでの福祉や教育系のちょっと生真面目なNPOの文化祭に加え、現代アートの集合展を併催した。難病患者の人権問題を語る場の横で、遺伝子をテーマにしたアート作品が展示されたのである。芸術のインパクト、というより、異なるものが刺激しあいながら共存する、カオスの力が遺憾なく発揮された。

NPOも、應典院のこれまでを貫く中軸のひとつである。95年の阪神淡路大震災を契機に、本格的な市民社会が到来し、ボランティアが、NPOが、やがて社会起業といった文脈が登場する。98年の特定非営利活動促進法、00年の介護保険の開始などがそれを後押しした。應典院はすでに登場段階で、そういう時代の熱気を帯びていたことも記憶しておくべきだろう。

◆震災チルドレン

演劇やアートとともに、應典院にやってきた若者たちは、ソーシャルな感覚にあふれ、コミュニティ参加と変革を目指した。NPOセンターやボランティアセンターが生まれ、應典院とも連携が進んだ。98年の「20代サミット」では、地方自治を目指す若者であふれ、現実にそのうちの何人かは地方議員へと立候補する。社会は変えられる。NPOの著しい進展と、應典院は確実にシンクロしていた。

そのNPOの活動の担い手が、私の言う「震災チルドレン」である。阪神淡路大震災当時、大学生で直接間接、被災地支援にかかわった、ボランティアの若者たち。就職氷河期世代でもある彼らが、就職の代わりに選んだものが、NPOであり、社会起業でもあった。これまでのロールモデルが成り立たなくなって、震災チルドレンたちが新たな働き方・生き方を模索しはじめた。戦後初めて生まれた「苦悩する若者たち」である。

應典院はそういう若者たちと連帯し、彼らによって支えられてきたのである。

秋田光彦(Facebook「應典院1995–2015 ニッポン宗教の死と再生」より転載)

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺住職・應典院代表)