イメージ画像

2017/6/27 住職仏教講話:傾聴。あらゆる表現は、仏に聴かれている。

應典院では演劇の仕込みの朝、「法話」と「念仏」がある。「法話」とは宗派伝統の様式があるので、正しくいえば「仏教講話」というようなものだろうか。30代中心の若者たちが、僧侶の話を聴くなど、ほとんど未知の体験だろう。
「布教はやめて」「坊主の話など演劇と関係ない」というクレームがあっても不思議ではないのだが、不思議に20年間一度もそんな声を聞いたことがない。「場の習わし」として受け容れられているのだろうか。たまに「今日のお話、よかったです」と、感想をくれたりする。
朝9時、劇団員が本堂に勢揃いして、正座合掌する。表現が始まる前に、厳粛で静謐な時間が生まれる。これは、演劇人と僧侶による協同作用だ、と思う。
練り込まれた話とは言い難い。ありがたい話でもない。プロの布教師さんには叱られそうだが、せっかくのウェブサイトなので、少しずつ「記録」として書き残していきたい。
初回は、先頃開催された演劇祭「應典院舞台芸術大祭space×drama○」での朝の講話である。


「傾聴」という話をします。

幼い子どもを喪った檀家がいます。そういう家へお参りに行くと、いたたまれない。お経の後、母親と向き合っても言葉が続かない。ある日、母親が堰を切ったように語り始めました。「この子はなぜあんな病気になったのか」「もっと他にできたことがあったのではないか」「死んでどこへ行ったのか」、そして「私は、このまま生きていいのだろうか」、そういう語りです。私がいかに僧侶といえど、たましいの叫びに軽々に答えられるものではない。全身を耳にして傾聴させていただくしかありません。

あるいは、言葉がないところで、傾聴が生まれる場面があります。

3年前、父を看取りました。最期はホスピスの2週間でしたが、鎮痛剤のためか、意識は朦朧として、満足なコミュニケーションはままならない。何を呼びかけても、小さな呻き声しか返ってこない状態でした。ある夜、父子ふたりで過ごした日、確かに何かが聴こえた気がした。親子60年の関係があってこそだろうけれど、父から私の心に届いたものがあったのです。言葉はなくとも、傾聴は成り立つと思います。

私たちは「発信」中心の社会に生きています。とくにSNSが発達して以来、誰もが発信者になって頻繁に「語り」続ける。ほとんど隙間がなく、発信が乱打される一方で、黙して聴く、心を据えて傾聴する機会は激減しています。情報を読んでいるかもしれないが、「受信」するという態度はめったにありません。

「発信」を強いる最たるものが、演劇という表現かもしれない。構造的に、舞台の上の役者は「語り続け」、客席の観客は「聞き続ける」しかない。周りは闇。よそ見はできない。「発信」と「受信」の立場関係がこれほど歴然としているものはありません。

それが時として、「発信者の奢り」に陥ることはないでしょうか。「表現者の優越」といってもいいかもしれない。芝居の評価が高まるほど、見せてやる、聴かせてやるという尊大さがにじみ出てくるとしたら、それは表現者が権力を持つことにつながる。演劇は、絶えず市民の側に、市井の人々とともになくてはならない、と思います。

この本堂は、じつに変った空間で、奥にはご本尊が、扉の向こうには広大な墓地があります。今からご本尊の手前に大黒(おおぐろ・「大きな黒幕」の意)が落ちますが、その背後から私たちの舞台を見つめている仏のまなざしがある。扉越しには私たちの語りに耳をそばだてる無辜の死者がいる。そもそも演劇は歴史的に儀礼として出発し、大いなるもの、聖なるものと交感する装置として開発されました。私が思うに、その意味で、あらゆる舞台とは死者儀礼なのかもしれないし、仏前に奉納されているのかもしれない。劇場としてのお寺は、都市のコスモスの境界線上に立っているのだと思います。

その時、表現者の立場の転倒が起きます。恐らくそれこそが演劇の始原だと思うのですが、ここで営まれるあらゆる表現は「してやっている」のではなく「させていただいている」のです。仏や死者によって。あるいはその代理者としての観客によって。

仏は傾聴するのみで、語ることはありません。究極の受信があるのみで、その応えは表現者がよほど心身を調え、耳を澄まさなくては届かない。かつて、私が父の前でそうしたように、発信者が心をこめて受信させていただくのです。

あらゆる表現は、大いなるものに見られている、聴かれているのだと思います。

南無阿弥陀仏。

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)