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2017/7/4 住職コラム:問いを、問い続ける場所~應典院から若者の20年史を見る~

余白の場所

應典院には毎日のように若者が集うが、誰もがここをお寺だと認識しているわけではない。寺である前に、演劇の劇場であったり、ワークショップの会場だったりするのだが、通い慣れていくうちに、違う馴染み方をするようになる。
「仏像がある」「お墓が見える」「住職が法話をする」とか、そういう具体的な体験を重ねていくうちに、ここに別の意味を読み込んでいくようになる。前提としてのお寺という認識はないが、場所を通過していくうちに、お寺に対するイメージが自己の中で生成されていく。既成のイメージに従うのではなく、新たなイメージを自ら描き出すのだ。
例えば学校や職場とは決定的に違う場所。親とか先生、上司の干渉がない、自分たちで運営できる場所。何ものにもとらわれない融通無碍な場所、言い換えれば社会の通念とか常識によって規定されない、「余白のある場所」が、お寺の原理であるはずだ。
そこで彼らは、自ら表現を試み、社会を批判する。それはきわめて自覚的かつ主体的な体験であるに違いない。歴史や倫理の決まり事として上から与えられてきた宗教とは、まったく異なるイメージが若者たちの身体の中に立ち生まれる。

オウムと阪神淡路大震災

話は変わる。「若者と宗教」というトピックスは、80年代あたりから言われてきた。「街の中の小さな神々」は政治や体制とは無縁で、ひたすら個人の内面へ、神秘や奇跡、癒しを求める共通項があった。
90年代から伸長したオウムは少し違ったかもしれない。国政選挙に出たり、体制批判をしたり、社会との対決姿勢を明らかにしていた。それが一部の若者たちの支持を集めるのだが、95年地下鉄サリン事件を境に、「若者と宗教」の関係は極端に危険視されるようになる。以来宗教は社会性を奪われ、スピリチュアルブーム(これも幅広い概念だが)へと回収されたのかもしれない。
私は別の見方をしているのだが、95年に起きたもうひとつの転機が「若者と宗教」の関係軸を転換させたのではないか。阪神淡路大震災をエポックとして隆起した市民活動のムーブメントである。
それまでは不和は不正、矛盾といったものに対し、「祈る」「すがる」でしかなかったものが、何かしらの社会課題として解決可能なものへと組織され、そこに多くの若者たちが参入した。同時期に再建された(97年)應典院の担い手は、就職氷河期世代の若者である。彼らが市民として主体的に参加できたところに、新たな生きがいの場所を発見したのだともいえるだろう。私にとっては、「若者と宗教」の新たな社会性の発見でもあったのだ。
生き難さや生きにくさを感じる若者たちはどの時代にもいた。それがどちらに転化するかは、社会の中に「考えたり」「問いかけたり」「悩んだり」する「余白の場所」があるかどうかに依る。應典院が、当初からNPOとアートにかかわりあうのも、そのふたつが共通して、正解ではなく延々と問いを問いつづけるからに他ならない。

社会の秩序から離れて

NPO以来20数年、東日本大震災を経て、さらに社会における「対話」や「協働」は促進された。また同じだけ、不正や不和、不合理について「悩み」や「迷い」も増えるわけで、それは容易に解決ならざるものだ。いったい私は何のために、誰のために存在しているのか。ふるまえばふるまうほど、苦悩は増幅していくのだが、それは余白の色合いにいっそう深みを加えてくことでもある。
若者は時代に悩むのだが、未だに社会は「宗教と若者」を異端視するし、既成教団は何かのアピール材料くらいにしか考えていない。誰もその余白の場に立とうとしない。
宗教学者の島薗進さんが「オウム事件は終ったか」というインタビューで、印象深いコメントを残している。
「社会の秩序に距離をとれる文化資源が養われなければなりません。日本の息苦しさを自覚して、違う何かを見られる世界を作っていく。そういう力は学問や芸術作品にもあると思う」
その感覚は、若者とともに悩んできた應典院の20年と、ぴったりと重なる。

 

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)