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2017/7/18 再録:吉田美彦先生・秋田光彦住職対談「High School Play Festival 2006を終えて」

今年も大阪高校演劇祭(High School Play Festival)の季節が近づいてきました。11年前の2006年、應典院寺町倶楽部の会報誌「サリュ」50号に掲載された、HPF実行委員会事務局長(当時)の吉田美彦先生と秋田光彦住職の対談を再掲いたします。この時、應典院での開催は4年目。ボランティアスタッフも新しい試みとしてはじまったばかりでした。HPFの意義を、実行委員会側・お寺側双方から見つめ直す内容となっています。ぜひご覧下さい。

4年の変遷そしてインターケア

吉田:應典院会場での開催は4年ですが、HPFの催し自体は17年になります。それまで使用していた会場が閉鎖することになり、場所を探していたところに應典院事務局の池野さんからご提供のお話をいただきました。また新しく美しい劇場ですし、我々としては思いがけないお話でたいへんありがたいと思いました。とはいえ最初の1、2年は「何とかしないと」との思いに駆られてばかりで、HPFの方向性について十分考える余裕は有りませんでした。3年ほど経ってようやく、自分たちの活動に対して意味を見い出せるようになってきたように思います。
秋田:それはどういうことですか。
吉田:應典院を会場にしている学校では、ホームページに應典院の紹介ページを設けていました。「日本で若者が一番多く集まる寺」という紹介があり、4年間継続し、應典院を会場にどういう舞台ができるのか、どういう出会いがあるのかということが書かれてありました。また何を上演するのか、何を願って舞台に立つのかと考えて芝居づくりをしていくようになってきています。単に学内から学外に出るだけではなく、各校の先生方がその場所で公演を続ける意味を考えるようになってきたのです。HPFは非常に重要な役割を果たしてきていると実感しています。
秋田:97年に應典院を立ち上げて以来、なぜ寺で演劇なのかが常に問われ、その意味づけを重ねてきた9年間でした。私にとって「なぜ應典院で演劇なのか」が明確に見えてきたのはHPFがきっかけだったといえます。最初は高校生の演劇祭と聞いて「應典院にふさわしいものなのか」と正直思ったものでした。ところが彼、彼女たちの目の輝き、呼吸、身体の伸びを見たときに演劇以前のもっと手前にある「表現をしたい」という思い、「自分らしくありたい」という希求を同時に見たような気がしました。HPFはアマチュアの表現を支える原点だと目を開かされました。加えて、ある世代のつながりも見えてきました。HPFではバックヤードを支える20代半ばのボランティアスタッフの存在も大きいですね。そこには、ミドルティーンと20代半ばという若者と一緒にくくるには違う階層、ほとんど交流することもなかった異世代の人たちが演劇の技を伝承しているのです。これはすごいことだと思いました。
吉田:ボランティアスタッフに関わっていただいたいきさつは、財政面の苦しさがきっかけだったのですが、予想した以上の出会いが生まれました。中には大阪府の高校演劇部出身者も、そうでない人たちもいました。普段は伝統を重んじる高校という現場での練習のため、顧問も高校生も閉鎖的になりがちです。とりあえずコンクールで勝ち抜きたいという一念でした。ところがボランティアスタッフの方々が高校生と話すことを楽しみ、一緒に作ってくれることで変化してきました。相手が卒業生だと、教え子になりますから、やはり上下関係で見てしまうところがあったのですが、柔軟に対応してくれる若いスタッフにふれて、「こういう若者がいたんだ」という発見が私にもありました。
秋田:私が一番はじめに阪神淡路大震災での活動で得たのは「ボランティアする喜びは、学ぶことだ」ということでした。一方的に奉仕することや尽くすのではなくて、ボランティアもまた学び続けないと続かないと思うのです。若いスタッフは人間が本来持つ「支える」ということの原理を、高校生と出会うことで気づいたのではないでしょうか。高校生は表現も未熟で、手を尽くしてやらないといけない。しかし、その中核にこめられた表現への思いや情熱に触れ、実は演劇をするうえで大事なものは、技術や知識だけではないというメッセージを受けとったのではないでしょうか。これからの社会はケアが大事になると言われています。福祉や教育だけでなく、いろんな関係のなかにありますが、インターケアというのか、一方的にケアするのではなく、お世話という行為を通じてケアする側も魂のケアがなされているように思います。

憧れの相乗効果

吉田:また、4年目でHPFの卒業生が出ていて、今年ボランティアで入った若者がいます。卒業してまもなくですので、とりあえず出身校に手伝いに行き、関わりながら20代半ばの先輩のより高い技術を学んでいます。そこで「あの人のようになりたい」と、スタッフで職人的に動いている人に対する憧れがでてきているようです。スタッフにしてもちゃんと言うことを聞く高校生がいて、おもしろくてやりがいがあるようです。そんなつながりが4年目のなかで生まれてきています。
秋田:いい話ですね。いま果たしてどれだけの大人たちが子どものモデルとなりえるのか、自分も含めて疑問です。大人が生きた模範を示すことが困難な社会となっているし、一方で「模範とは何か」も、問われています。これからの模範は正解があるというより、自分で発見するものなのかもしれません。交流することができる身近な憧れが、次第に次の憧れを引き起こして先につながるようなものになればいいですよね。
吉田:先生よりスタッフのいうことを聞くんですよね。いつもと違う気持ちになれるのかもしれません。学内だけでやっているのでは、あまり変化はないと思いますし、学外に出てハコが変わったからというのではなく、この4年のHPFは外に出ることによって新しい出会いがあっての変化だと思います。ほんとうに高校生自身がずいぶん変わってきました。
秋田:演劇に限ったことではありませんが、すべてのアートには出会わせる力がありますね。出会いといえば子どもと先生だけではなく、親や学校以外の人たちの反応はどうでしたか?
吉田:京都の専門学校で演劇を勉強されている方がほとんど毎日見に来てくださいました。應典院をはじめ他の会場への足を運ばれているんですよ。予想外のものを示す高校生の表現力に関心を持たれていました。またウイングフィールドでは、お母さんが脚本を書いて娘が主演するというのもありました。お母さんの脚本がとてもおもしろいんですよ(笑)。また親たちの反応では、学校での練習は毎日帰りが遅く心配だったけど本番では「娘、よくやったな」という感想がたくさんありました。芝居を家族で楽しみ、みんなで一緒にご機嫌で帰るという風景をよく見かけました。應典院のロビーでゆっくりくつろいで、気持ちをわかちあって、いつもと違う雰囲気を味わって帰って行かれるようでした。

自分の存在をかけた表現

秋田:子ども達の表現について変化してきたことはありますか?
吉田:今まで型にはまってしまい、その子の良さをあまり引き出せていない演出があったように思います。それが今年は出演者の個性を生かした舞台づくりがなされました。ひとりひとりの役者の存在を生かしていく演出です。
秋田:オリジナルでなく、名作といわれる戯曲を演じた学校もありました。
吉田:自分たちの脚本ではないし、難しい設定をどうするのか。ひとまずやりたいことをやってごらんとゆだねた結果、自分の言葉になっていったという印象を受けました。
秋田:若い時代の表現は主体性の目覚めというか、自分はここにいていい、祝福されているという気づきを得られることが重要です。この世代の子ども達が表現を放つということはとても大事です。今は残念ながら呼びかけが抑圧された社会になっています。なんでもいい。なんでもいいからやってみたら、という社会のキャパシティや寛容性が必要です。そういう場を提供するというのが私たちの姿勢であり、またそれを保証することが大事だと思います。17歳の呼びかけはせりふを越え、自分の存在をかけた呼びかけになっています。生きているってすごいことだなと思う瞬間です。演劇の一番の原点ではないでしょうか。
吉田:限られたせりふ、たった1回だけの舞台です。あらゆる緊張感をそこにこめているわけです。HPFでは一番良い状態で自分たちのよいものを提供しているように思います。
秋田:演出家の竹内敏晴さんは「呼びかけとは世界に対する参加の第一歩だ」ということを本に書かれています。ケイタイもインターネットもいらない、ただあなたの身体があればいいんだ、と。その投げかけは、なぜ寺が演劇をするのかというところに還るのです。劇場というのは、「ある」のではなく「なる」ものだといわれています。つまり使い手たちが劇場を育てていく。應典院はたかだか10年、HPFも4年です。子どもたちも演劇を核としながらそれぞれの人生を重ねていくんだと思います。劇場を一緒に創り上げていく、場と仲間を次の人たちに引き継いでいきたいと思います。
吉田:ご厚意で場の提供、多くのスタッフに支えられているので、自分たちの若い力でやっていきたいと思う人たちが育ってほしいと願っています。これからも若い力の成長を見続けていきたいと思っています。
秋田:今日はありがとうございました。

(「サリュ」50号より再掲、構成:大塚郁子)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)