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2017/8/21 住職コラム:子ども、異人と出会う~キッズ・ミート・アート2017に寄せて

キッズ・ミート・アート(KMA)が今年で5回目を迎える。だんだんと場が広がり、多様なアーティストの参加も進んでいる。

ところで、「子どもとアート」という企画は、今どきどこの街で開催していても不思議ではない。行政や学校が主催した、ちょっとオシャレな子どもイベントはあちこちにあふれている。
KMAの特異は、会場がお寺だ、という点だ。一昔前までお寺の境内は子どもの遊び場でもあったのだが、テーマパークに馴らされた人たちにはそれが逆に真新しい。本堂や境内、あるいは墓地などの宗教空間から、強く匂い立つものは、子どもがもともと孕む異人性といってもいい。

近代以前、子どもは異界を生きる存在であった。その自由奔放さ、闊達であり無作為であり、またいたずらや乱暴を働く子どもは、現実の俗世間を超えた「童」であり、人々はそこに神の憑依を感じとっていた。誰の子どもでもない、産神(うぶがみ)の霊力の元に置かれていたのである。
近代の家族制度のもと、子どもは親に養育され、制度保障の中で権利の主体として保護されるようになった。また将来の有為な人材として教育され、国家社会に貢献することを要請されるに至る。つまり、合理的存在に「育つ」ことと引き換えに、異人としての子どもは消散していったのである。

KMAの子どもたちが、なぜおもしろいか。行政や学校が仕掛ける「子どもとアート」が、一定の体制に組み入れる企みである反面、ここでは宗教空間がその異人たちの自由な蠢きを引き立たせるからに違いない。この場面において、アーティストは聖なるものと引き合わせる宗教者の存在に近いのだと思う。
墓場で鳩を飛ばす。本堂で声明を唸る。糸を紡ぎ、水粘土をねり、にじむ墨で山や川を描く。即興のピアノ演奏にのせて子どもたちが乱舞する。目的とか効果とかとは一向に結びつかないが、その都度、何者かに呼応するように、子どもの身体に潜んだ直感が勢い立つのである。アートとは、表現された成果というより、そのように見えない他者との関係性を紡ぐ、カジュアルな儀礼なのではないか。

寺には仏がいる。死者がいる。彼岸があって、浄土がある。目には見えない壮大な物語に抱きしめられて、子どもは子どもの内なる異人に出会うのである。

秋田光彦

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)