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2017/9/13 主幹コラム:弱さという名の強さ~仏教と当事者研究プロジェクトに寄せて

当事者研究という活動をご存知でしょうか。北海道浦河町にある「べてるの家」で始まったこの活動は、幻聴などをもたらす精神疾患を抱える当事者たちが、「専門家によって病気を治療される」という従来の考え方を捨て、病気の存在を認めることで、「(他者とともに)自らが症状を研究する」という全く別の態度を創出しました。「降りていく生き方」「弱さの情報公開」など、魅力的なスローガンとともに活動の輪は全国に広がり、今や精神疾患に留まらない様々な領域で、当事者研究を行う団体が活動しています。当事者研究によって、「弱さ」ということばの持つ意味が変わっていったのです。

2014年初頭には、浄土宗應典院を拠点に、有志のメンバーによって「仏教と当事者研究プロジェクト」がスタート。自主的な読書会、浦河町への「遠足」などで学びを深め、同年9月には向谷地生良さん(べてるの家ソーシャルワーカー)らをお招きした「第67回寺子屋トーク〜仏教と当事者研究in Outenin」で、プロジェクトの集大成を迎えました。

思えば、鎌倉時代に浄土宗を開かれた法然さんが為したことも、「弱さ」への着目と、新しい態度の創出であったといえるでしょう。どうしても戒律を守ることができず、こころを落ち着かせ、悟りの智慧を得ることのできない私。それまでの仏教に不可欠であったものを学び極める「強さ」を持っていないことへの、恐ろしいまでに透徹とした自覚とともに、日本仏教は「弱さ」に向けて大きく転轍していきました。それは時代が要請した革命的表現であり、阿弥陀仏に思いを寄せて称える「南無阿弥陀仏」は、まるで「弱さの情報公開」の原初的な姿であるとも見えます。

しかしここで、浄土宗のおしえも当事者研究も、安易な現状肯定とは一線を画していることに触れておかねばなりません。「我が名を呼ぶものは必ず救う」という阿弥陀仏の誓い、あるいは「生きているだけでいいんだよ」という他者からの呼びかけは、もはや自力で立てなくなるほど他者にすがり、主体的な構えを喪失するためにあるのではない。他力による救いは、自力で立ち上がることのできない私がかろうじて立ち上がり、自らの探求に向かうことを可能にします。まさに依存とは自立のことであり、ここで言う「弱さ」とは「もうひとつの強さ」の別名なのです。

もし「南無阿弥陀仏」が甘えきった現状肯定を追認するものでしかないのなら、その極端さは仏教の名に値しませんし、逆に企業や学校で勝ち抜く「強さ」ばかりを賛美する現代社会の傾向は、もう一方の極端さを指し示すばかりです。私たちはどちらの極端も退けながら、自らの壊れやすさに対峙し、それを、生き抜き、死に切る力に変えることができるはず。寺院とは、人々が「弱さ」を他者に開示し、覚りの地点まで降りられる場であるべきかもしれません。

秋田光軌

(2016年10月28日、大阪日日新聞コラム「澪標」から抜粋・再掲)

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秋田光軌
(浄土宗大蓮寺副住職)