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11/30 「ブッダのめがね」を開催いたしました。

11月30日(日)朝、應典院・研修室Bにて「ブッダのめがね~かけて・話して・考える~」が開催されました。このイベントは、上町台地マイルドHOPEゾーン協議会の助成を受け、「オープン台地vol.5」の一環として行なわれたものです。コーディネーターとしてNPO法人寺子屋共育轍の皆さんをお迎えし、研修室Bが「ブッダのことばに包まれる空間」に生まれ変わりました。

「言葉の美術館」と題された前半は、自由に会場内を歩き回りながら、展示されたブッダのことばに触れる時間。ひとつのことばの前で立ち止まる人、写真を撮影する人、気になったことばをTwitterであげる人、参加者それぞれが思い思いにブッダのことばと関わりを持っていました。最後に、全員で円になって空間や展示に対する感想を共有し、多様な配置で展示されたブッダのことばに「本で読んだ時と全く印象が違う」という声があがりました。

会場のレイアウトを変更し、後半の「ダンマパダ読書会」がはじまりました。「ダンマパダ」とは、「法句経」とも呼ばれる仏教の最も古い経典の一つで、特に人気のあるお経です。文章を読みながら、ファシリテーターの進行のもと、参加者によって対話が進められました。たとえば、「『善いこと』や『悪いこと』という区別が頻繁に登場するが、私たちが思うような『善い』や『悪い』とは違うことを言っているのではないか」といった問いが、参加者から投げかけられました。前半の時間を経て、新鮮な気持ちでブッダのことばと向き合えた方も多かったのではないでしょうか。

終了後、ある参加者から「今まで自分の中で抱えていたものが、少しだけ楽になりました」とお話もあり、暮らしの中で感じるモヤモヤを見つめ直すような企画となりました。次回の開催時期は未定ですが、日程が決まりましたらHP上で告知いたします。

― あとがき ―

NPO法人寺子屋共育轍
代表理事 蔵田 翔

「読書という一連の流れで読むのではなく、一つひとつ言葉として受け取ることが出来て、すごく良い経験になった」
「言語化できていなかった思いが、言葉と向き合う中で、心にストンと落ちてきた」

この感想は交流会で頂きました。
ブッダのめがねは、日常のモヤモヤをブッダという先人の知恵をお借りして見つめなおすというコンセプトのもと取り組んでいましたので、「開催してよかった!!」と感じる言葉を頂いて嬉しかったのと共に、こういった場の必要性を強く感じました。

開催前は、2500年以上前の言葉が、現代人が感じているモヤモヤに響くのか、少し不安を感じていたのですが、言葉を壁に飾り、お香を焚いて、会場のレイアウトを整え、言葉の美術館を見て回った時に、スッと自分の中に言葉が入ってきました。

読書とは違う、言葉と向き合う時間。
参加者と一緒に"感じたこと"や"気づいたこと"を共有することで、日常のモヤモヤを受け止めることが出来たり、新しい発見ができる。
読書会ともまた違う、言葉と"出会い"、"向き合う"時間が、ブッダの言葉から生まれていたと思います。

NPO法人寺子屋共育轍
理事 日髙 明

今回のブッダのめがねのコーディネートをしたNPO法人寺子屋共育轍の蔵田翔くんが「言葉の美術館」というアイデアをつぶやいたとき、その響きと意外性が面白くて乗ったものの、なにか現物を生で見てみるまでは、実は具体的なイメージがつかないままでした。おそらく、初めてブッダのめがねに参加された方々の多くが、同じように「よく分からないままに来てみた」というのではないでしょうか。

「言葉の美術館」では、仏教の言葉が、美術作品のように展示されることになりました。そのひとつひとつを、齊藤由華さんがデザインしています。はじめにそれらのデザイン画を見せてもらったとき、言葉は、字体や文字の大きさや配置の仕方によって、こうも印象が変わるものかと驚きました。

その驚きは、実際に会場内に作品を展示してみることで、さらに強くなります。
展示の仕方には工夫がこらされました。原始仏典『ダンマパダ』の句が、小さなパネルでガラスタイルに貼られ、大きめのパネルで窓に立てかけられ、コンクリートの広い壁面に大きく幅をとってプロジェクターで投影されます。

あるところではつま先立ちになり、別のところではしゃがみ込んで、私たちは全身を使ってブッダの言葉を眺めることになります。目を凝らさなければ読めないほどのか細い言葉があり、5メートル離れても突き刺さるような力強い言葉もある。ファーストインプレッションが、その言葉に対する距離のとりかたを決めてしまうようなところもあります。

「言葉は思考の着物ではなく、思考の身体である」と書いた哲学者がいました。それを少し別の視点から、「言葉は顔を持つ」と言ってもいい。言葉には顔がある。愛しい顔、慕わしい顔、畏まるべき顔、よそよそしい顔と同じように、言葉は私たちに面する。私たちに触れる。

今回のブッダのめがねの言葉の美術館では、そういった言葉が持つ顔、言葉の表情を、特に意識させていただきました。原始仏典を本というかたちから放して、自由にデザインし、空間内に配置したからこそ、言葉は顔を際立たせたのだと思います。
その「顔」の哲学的な意味については、秋田光軌くんがきっと僕に詳しく説明をしてくれる、と期待しています。

浄土宗應典院
スタッフ 秋田光軌

参加者の皆さんと一緒に、ブッダのことばについてゆっくりお話できたことは、自分にとっても楽しい時間でした。
「ブッダのめがね」に参加してくださった方それぞれが、ものの見方や感じ方を少しでも変えるきっかけにしていただけたら嬉しいです。

應典院寺町倶楽部
スタッフ 齊藤 由華

ブッダのめがねでは、私は「言葉の美術館」の展示デザインを主に担当致しました。

仏教は、よく分からない。私の印象は、初めから今もあまり変わりません。私には『ダンマパダ』も、ナニモノか初めは全く分かりませんでした。
ひとまず本を開き、眺め始め、1つ1つ、その言葉が持つ印象や形を、デザインしていきました。初めは、ある程度の規則性を持って、形を成していけばいいと思っていましたが、作っていくうちにそうはいかなくなっていきました。あまりにも、それぞれの言葉に表情がありすぎて、同じように表現することの方が難しかった。そして、突き動かされるようにできあがり、言葉は空間も含め、表現されていきました。

「ダンマパダの言葉は、“人”そのもののようだ。」言葉をデザインし、企画を実施して、様々な人たちが言葉に触れていくところを見ていく中で、そう感じました。人の生きている時間を切り取ったような、1つ1つ。だから誰にでも、すぐに自分に置き換えて、言葉を飲み込むことができる。何千年経とうとも、人は変わらない。同じようにつまづき、悩み、移ろい、落ち、成長し、幸福になっていく。ダンマパダの言葉とは、生き様を写し取ったもののようでした。

未だに仏教を「分かった」とは思いません。しかし、その仏教の言葉たちが、生きてきた時間の中で、蓄えてきた大きなエネルギーを持って、現代に生きる人の背中を押してくれるのは、確かだと実感しています。

参加者の皆さま、応援して下さった皆さま、スタッフの方々、企画が実施できたのは関わって下さった皆様のお陰です。誠にありがとうございました。ここで生まれた縁を大切に、今後に繋げていきたいと思っております。今後ともよろしくお願い致します。