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2017/10/26 釈徹宗:再建20周年記念講演「應典院の時間と場と関係性と」後編

去る4月26日(水)、浄土宗大蓮寺塔頭應典院20周年感謝の集いにて、第二部の記念講演の講師に浄土真宗本願寺派如来寺住職、相愛大学人文学部教授である釈徹宗先生をお招きしました。
釈先生は、NHK「100分de名著」をはじめ各メディアでご活躍される、日本を代表する宗教学者であると同時に、「寺子屋トーク」や「コミュニティ・シネマシリーズ」へのご登壇、また企画段階から参加していただいた2015年の「セッション!仏教の語り芸~伝統vs創造~」など、最も應典院に関わりの深い仏教者のおひとりでいらっしゃいます。
今回、その際の講演録を、前後編の二回に分けて更新いたします。後編では、クロノスとカイロス、トポスとコーラといった時間と場の概念を提示しながら、「應典院的な場」とは何かが明らかにされます。どうぞお楽しみください。
(前編はコチラ)


依正二報

お寺の本義には、まず「仏法を保持していく場」というのがあります。そして、宗派仏教であればさらにその性格は強くなります。浄土宗であれば浄土宗のお念仏の教えを保持し伝えていくというミッションをになっているわけです。浄土真宗では、もともと念仏道場から寺院化した経緯があるため、この点を強く意識する傾向が強い。ですから、「あくまでお寺はお念仏を伝えるためにあるのであって、人を集めることが本来の目的ではない」「社会のニーズに迎合して、単に人を集めているだけなら、お寺の存在意義はない」などと言われます。ですから、新しいことへの取り組みに対する批判が多いんです。なかなか口うるさい宗派でして(笑)。

では、應典院はこれからどのような道を歩むのでしょうか?伝統仏教的なミッションを設定していくのか、それともこれからもそういう部分はカッコに入れていくのか。私は改めて應典院のデノミネーション・ブディズムに対するご意見を聞きたいと思っています。もちろん、「ミッションの部分は大蓮寺が担当している」という考え方もあるでしょう。

私個人の解釈では、應典院に一貫しているのは、「既存の仏教からこぼれ落ちるものを拾い、幽かなものをキャッチアップする態度」だと思っています。考えてみれば、法然こそ「既存の仏教からこぼれ落ちるもの」と向き合いつづけた念仏者でした。そこから考察しますと、この應典院の態度は浄土宗の本源的なところに根差していると言えます。

さて、もう少し、これから應典院が歩み続けるための基盤についてのお話をさせて頂きます。應典院は貸しスペースではありません。これまでにも、自己啓発セミナーであるとか、癒し商法の人たちが「一緒にやりましょう」とアプローチしてきたこともあるそうですが、ことごとく断っておられます。繰り返しますが、このお寺は何でもやるお寺ではありません。

秋田光彦先生は「お寺は、開くことによって、必ず何かを失う」と述べておられます。開くことによって建物が痛むし、住職の時間やプライバシーも制限される。にもかかわらず、宗派仏教というものをカッコに入れつつ、あくまでもお寺としてこの場を開いておられる。そして、何をやるかについて、「これはOK」「これはダメ」という線引きはないんです。具体的な指針があるわけではない。でも、わかるんです。これはOKだけど、これはダメだと、わかる。なぜなら、運営側が仏道を歩んでいるからです。だから、もう、理屈抜きにわかるのです。浄土宗の教えをコツコツ歩んできているからこそ、取捨選択の判断ができる。そういうものなんです。

ですから、最近のお寺ではよくある取り組みだけど、應典院には似合わないといった催しがありますよね。ヨガ教室とか、婚活とかはあまり似合わない気がする。何が一番合うかな。やはり映画でしょうか(笑)。山口洋典さんが二代目の主幹の時は、コモンズデザインがこの場にぴったりという感じもしましたし、現在の秋田光軌主幹になりますと、もっと規模が小さい場作りが「應典院っぽい」ものになるのではないかと思われます。

『阿弥陀経』という仏典に依正二報の教えがあります。「依」というのは場のこと、「正」というのは人のことで、本来は「仏心と仏国土は一つである」と説く教えです。つまり「ここに集う人とこの場というのは区別がつかない。この人々がいるからこそ、この場がある。この場があるからこそ、この人々がいる」という考え方ですね。これは應典院にはぴったりのお経でしょう。また、善導大師は「学仏大悲心」「自信教入信」という言葉を使っておられます。仏の大悲の心を学び、自ら信じていることを伝える。このあたりを應典院の仏教経典的な根拠にしていただきたいなと思います。また、『維摩経』には「直心是道場」ということばがあります。誠実で真摯な心があれば生活の場すべては道場となる、この考え方も應典院にマッチすると思います。

カイロスを延ばす

最後に、應典院の正体についてお話します。ここは、マネージメントとミッションがあまり言語化されていません。大枠では提示されているのですが、詳細に説明したり、線引きしたりしません。それがこの場のキモです。わざとそうしていると思うのです。言語化しないから、境界線が見えにくい。應典院の正体が見えにくくなる。でも、数多く足を運んだ人だけがわかります、應典院って何なのかが。そういう運営方針をとっているんじゃないでしょうか。そこで、應典院の正体を考えるのに参考になる、時間と場の捉え方について少し語ってみますね。

私はしばしば「物理的に流れる時間」と「私たちが内蔵している時間」は分けて考えています。神学者パウル・ティリッヒの「クロノス」と「カイロス」という言葉を使いますと、クロノスは物理的・客観的に流れている時間で、カイロスは精神的・宗教的・生物的な時間のことです。ひと昔前に比べると、移動時間がすごく短縮されていますよね。かつては一日半かけて行った所に、今は二時間で行ける。家電製品の発達もありますので、かつて必要だった時間(クロノス)は随分余ってしかるべきでしょう。それなのに、現代人は明らかにひと昔前より忙しそうに暮らしている。なぜそのようなことが起こるのか。それはカイロスが縮んでいるからです。クロノスを延ばしても、カイロスが縮んでいると、イライラしたりストレスフルになったりする。現代社会においては、クロノスの時間を短くするシステムばかりが増えて、カイロスの時間を長くする機会がどんどん失われているのです。カイロスをどうやって延ばすのか、これが現代人の大きなテーマでしょう。そして、カイロスを延ばす伸ばす人類史上最高の装置が宗教儀礼なのです。

次は、場についてです。フランスの哲学者ジャック・デリダの言葉を借りると、場は「トポス」と「コーラ」に分けられるのですが、目的がはっきりして構造的にしっかりしている場がトポス、逆に構造から外れていく場がコーラだとされます。デリダがこういう事を言っています。「人はついロゴスとミュトスの二項対立の罠にはまる」。私風に解釈すると、ロゴスというのは論理や言語、ミュトスというのは神話や信仰のことで、人はこのいずれかにはまってしまうのだと。まさにロゴスやミュトスが縦横無尽に機能する場がトポスだとすれば、これらがうまく機能しない謎めいた場がコーラになるわけです。デリダもこの概念はかなり苦労して説明しています。私はこのコーラという場を「~的な場」という言葉を使って表現しております。「お寺的な場」とか「應典院的な場」があちこちにできることが、これからの成熟期の社会に重要だと思います。

以上のような意味を踏まえた上で、あらためまして、仏教寺院の新しい方向性を示した、應典院の20周年を讃嘆させていただきたい。心から敬意を表します。これからも應典院独特の「應典院的な」場づくりを続けていって、我々のカイロスを延ばしてください。

人物(五十音順)

釈徹宗
(宗教学者・浄土真宗如来寺住職・相愛大学教授)