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2017/12/7 住職仏教講話:演劇の始原。死者の声を聞き取るということ。

應典院では演劇の仕込みの朝、「法話」と「念仏」がある。「法話」とは宗派伝統の様式があるので、正しくいえば「仏教講話」というようなものだろうか。30代中心の若者たちが、僧侶の話を聴くなど、ほとんど未知の体験だろう。
「布教はやめて」「坊主の話など演劇と関係ない」というクレームがあっても不思議ではないのだが、不思議に20年間一度もそんな声を聞いたことがない。「場の習わし」として受け容れられているのだろうか。たまに「今日のお話、よかったです」と、感想をくれたりする。朝9時、劇団員が本堂に勢揃いして、正座合掌する。表現が始まる前に、厳粛で静謐な時間が生まれる。これは、演劇人と僧侶による協同作用だ、と思う。
練り込まれた話とは言い難い。ありがたい話でもない。プロの布教師さんには叱られそうだが、せっかくのウェブサイトなので、少しずつ「記録」として書き残していきたい。



哲学者の内山節さんは「欧米の社会やコミュニティは人間だけの社会を意味するが、日本ではそれだけでなく、予め自然や死者の存在を含み混んでいる」と仰っています。

死者というのは遠くへ行った存在ではなく、この社会にとどまってわれわれとともにいる。この社会のなかで死者がわれわれを守ってくれていて、その物言わぬ死者から意見を聴き取るために開発されたのが宗教儀礼である。そんな意味のことを語っています。

演劇という表現も、その始原は死者との交感を目的としてありました。

昔、人々は簡単に死にました。病気、飢餓、疫病、災害など抗いようのない自然の脅威を畏怖した。自然とは「おのずからしかり」の意味ですから、状況をそのまま受け入れるしかなかったのですが、その鎮魂や供養のために演じられたのが日本の演劇のルーツと言えます。それが洗練されてやがて能とかが生まれますが、古典的な演劇は多くが様式(儀礼)的だし、はっきりと死者が憑依した形で演じられます。

應典院は葬式をしないお寺なんですが、今も仏教には多くの儀礼が残っています。お墓参りとか、あるいは法事やお葬式とか馴染みがあるかもしれませんが、そういう多くの儀礼は亡くなった方の声を生者である私たちが聴き取らせたもらうために延々と築かれてきた歴史を持ちます。僧侶はそのいわば案内人みたいなものですね。

現代人にとって儀式とか儀礼というのは形骸化している、非常に退屈なもの、手早くすめばいいと大概が思っているんですが、それは古来の日本人の感覚からすると、死者の声に対する無関心であり、あるいは生者の優位であり、私たちの傲慢であると言えるかもしれません。

みなさんの芝居も例外ではありません。不躾かもしれませんが、役者というのは死者の憑代です。役者のセリフは、その生者に憑依した死者の語りです。そもそも劇場という非日常な空間は、この世とは違う、死者の棲む異界のようです。ですから、演劇とは私たちが聞き取ることのない声、目に見えない実体を、舞台という仮構の姿にせよ、呼び起こしてくれる壮大な装置なのだと思います。

なぜ、お寺で演劇なのか。死者と共生する場所を、現代的儀礼によって呼び起こすために、劇場寺院應典院は再建されました。もちろん内容は青春ドラマだろうが、コメディだろうが何でもいいんです。けれども、一方で次々と消費されていくだけのエンタメとは異なる、表現の深層にある何事か。その演劇の始原というものを、ある意味分かりやすく示しているのが、この御本尊を安置した本堂であり、ロビーから見える広大な墓地の風景ではないかと思います。

私たちは、かつていた誰かの声を引き継ぎながら、今その声を現在へ語り落としていく。さらにそれを聞き取った人たちは、多くの時間と関係を経て、その声をまた次代へとリレーしていく。歴史というものは権力者が勝手に記述するものでなく、私たちが死者の声をしっかりと聞き取って、表現という仮構の姿をとりながら、次の世代、社会へと、取り次いでいく、そういうポリフォニーを奏でていくものだと思っています。

合掌。同称十念。南無阿弥陀仏

秋田光彦

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)