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2018/6/22 謹んで地震災害へのお見舞いを申し上げます。住職仏教講話:演劇の真価~非日常から日常への舳先~

謹んで地震災害へのお見舞いを申し上げます。

今週末6月23・24日に開催する「第2回 縁劇フェス」の仕込みに際して、秋田光彦住職から演劇人たちへの法話がありました。
非日常のさなかで人は日常の回復を願う。そこにこそ宗教や演劇の本領があるのではないかーー。

應典院からのお見舞いに代えて、ここに全文掲載させていただきます。


このたび大阪北部で発生した震災被害に対し、心からお見舞い申し上げます。

今回の震災の報道には、共働きの夫婦が互いを助け合い、絆が強まったという話がありました。それ以降、地域活動に参加が増え熱が入ったという話も耳にします。

非日常にあって人間関係は揺さぶられます。家族しかり地域しかり職場同僚しかり。普段はありふれた間柄が、思いがけない事態に直面してその真価を問われます。震災という非日常はその極みと言えるかもしれません。

非日常と日常は一対の関係です。末期患者が毎日の暮らしを愛しむように、生は死があって輝きます。宗教もそうです。長い習慣の中に溶け込んだ日常があるから、人々は愛する人との死別(非日常)を葬送儀礼という伝統(日常)を通して受け入れようとします。非日常にあってこそ、人は日常の回復を願うものなのです。

では、演劇はどうでしょうか。

一般に演劇は非日常的世界といわれますが、所詮仮構の世界に過ぎない。大きな震災があったりすると、忽ち歌舞音曲は自粛せよとなる。非常事態にあっては、芝居だアートだいうより、まず優先されるのはパンと水なのです。

では、演劇人は震災を前にただ沈黙を通すしかないのでしょうか。ほとぼりが冷めるまで劇場の暗闇でじっと身を潜めるしかないのでしょうか。

人命の救援が急がれる最中にも、上演を決行せよというのではありません。しかし、演劇がフィクショナルな域にとどまる限り、閉じた演劇世界に閉じこもる限り、この度のように現実の非日常が襲った時、活きた存在感を見いだすことは難しくなります。平素から演劇をいかに日常化させるか、その不断の試みが必要なのではないでしょうか。

劇場という守られた空間を出て、地域へ演劇を届ける。学校でもいいし、介護施設でもいい。應典院では、「高齢者演劇」に取り組んでいますが、芝居づくりを通して、高齢者の新たな人間関係を探り出そうとしています。間もなく始まる高校生の演劇祭も、演劇が大きな教育的資源であることを気づかせてくれます。非日常という囲いから日常という空に放たれて、演劇もその真価を問われるのです。

震災によって尊い人命や建物、財産などいろいろなものを失いました。非日常の痛みは容易に癒えませんが、演劇人が目指すべきはゆっくりとでもいいから日常へと回復していく、その舳先となることではないかと思うのです。

 

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)