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2018/3/5 住職コラム:應典院20周年、宗教の公共性を考える

2018年3月2日、20周年のシンポジウムが終わった。たくさんの方々に来ていただいた。感謝に堪えない。ありがとうございました。

後半私が壇上に上がった途端、「宗教の公共性」という論題が浮かび上がった。私の基本姿勢は、「すべてのお寺は公共性を有している」だが、残念ながらそれだけでは権利擁護にしかならず、説明性納得性に欠ける。「宗教の社会貢献」とは、それをさらに翻訳して、外部にもまた内部にもわかりやすく提示したもので、宗教が公共空間にどう関与できるかがその具体が問われる。宗教の社会貢献とは、明らかにこれまでの「信徒」「教化育成」による自己規定から、宗教と社会の関係転換を試みようとしたのだ、と思う。

社会貢献という言葉も時代とともに質感を変えている。一昔前は、篤志家からの賜り物だったが、NPOの時代になってはるかに身近に、日常的なものへと変わった。かつて企業が金儲けの方便として社会貢献した時代はあったが、今のソーシャルビジネスではそれが逆転している。
であれば、宗教の社会貢献もいろいろあっていい。自死遺族やホームレス支援の先駆的な取り組みは特筆されるが、應典院のような場含みで若者を支援することも寺ならではの貢献ではないか。それを青少年育成というのか、まちづくり、文化振興というのか、外向けのレッテルは何でもいい。問われるのは「宗教の」主体的なかかわりであって(それが何を指すのか、これもじつに多義的である)、それを「信徒」「教化」という枠組みだけに回収させてはならない。制度を超えたところに、新たな地点を見いだし、そこから改めて制度を再定義してみる。宗教が担うべきもうひとつの地点へと、「宗教の社会貢献」は登高させたといっていい。

應典院再建以来、「お寺とNPOの協働」を提唱してきた。そのモデルは一定の認識を得たかもしれないが、実践は必ずしも拡大していない。宗教側の鈍さを嘆くのは簡単だが、NPOを援用しなければ社会貢献が成り立たないわけではなかろう。重要なことは外(NPO)の貢献性より、宗教がその内側に意味と役割を見いだすことではないか。「宗教の公共性」とは、宗教自体が社会における存在理由を、自ら更新していくことに違いない。

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)