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2018/9/30 住職コラム:おてら終活祭を終えて思うこと

「おてら終活祭」が無事閉会した。あいにくの雨続きだったが、2日間でのべ550名が参加、メディアの報道もあって、本堂での4企画はいずれも100席が埋まった。イベントはあくまで一過性の場だが、以前ここでも発表したように、「おてら終活プロジェクト」は今回を起点に継続されるものだ。今後の参照として、感じたことを記録しておく。

匿名性と記名性の関係

お坊さん相談室には「菩提寺の住職にはできない」が「知らないあなただから」と多数の相談が持ち込まれた。濃密な記名性の世界(つまり誰もが名前を知り合っている関係)にあったお寺の世界にも、関係の流動化が進むのだろうか。永代供養墓や僧侶紹介も同様に、「脱菩提寺」の現象とも言える。

匿名性が担保されるゆえ、知らぬ者どうしの安心感や受容性を促すことはあるが、それは相談者に限ったことではない。僧侶の側にも、自己規定しがちな自坊での言動とは異なる存在理由や役割を見いだすことができるのではないか。匿名を演じて自己を再構築するチャンスがあるのかもしれない。

超宗派とシェアリング

〈まいてら〉と共催して、宗派の異なる僧侶が20名以上集まった。超宗派といえば各地の仏教会がそうであるが、組織は大きくとも寄り合い所帯であることは否めない。

〈まいてら〉僧侶たちは、「個の論理」が先に立つ。明確な課題意識は共通しているから、仕事も分担できる。宗派も地域も異なるが、住職としての社会性やスキルは共有しており、一つの資源も有効に共用・分有できる。今後は、終活のイベントや発信を連携する可能性も高まるだろう。

シェアリングは時代のキーワードだが、宗派・教団内では慣例やヒエラルキーが強く、もう一つの超宗派行動において共有や交換が進むのかもしれない。

葬式仏教は一回性か

セッションでは、果たして葬式に宗教はいるのか、という問題提起がなされた。各種調査ではすでに「いらない」が多数派になりつつあるという。不要と指弾されているのは、儀礼なのか僧侶なのか金銭なのか、それは措いておく。

それに応答しようと、儀式効果アップのアイデアもいろいろあるようだ。式場葬が普及した今、「寺葬」へ取り戻す試みも良いだろう。が、詰まるところそれは葬式の演出の域を出ないのであって、ならば究極は葬儀費用の超低廉化だろう。それが葬式仏教のベストなのか。

葬式仏教とは、一回性の儀式を指すのではない。そこに至る(檀信徒との)日常の不断の営みや、愛着や信頼の総体を指すのであって、もっとロングスパンで描き出されるものではないか。そこに当然、地域や他者との関係性も問われてくるのであって、一回性の議論にある限り、布施も戒名も納得できる回答には至らない。葬式仏教から多様な価値を読み込むこと。視野狭窄に陥ってはならない。

終活と宗活

相続や遺産の終活カフェで専門家が喋ったあと、僧侶が「執着するな」と発言する。実務課題に対し、宗教者の回答の大抵はカウンターである。それはアンバランスなのかバランスなのか。

実務課題の多くはお金と専門家がいれば解決する。末期の医療も介護もサービスとして満足は与えられるが、しかし死生の煩いはそれでは容易に解に至らない。人間の内面そのものの変容を伴うからだ。私のいう「宗活」の必要がそこに生まれる。

お寺の終活とは、周縁に実務的終活があって、中心に宗活にあって、その同心円を双方向に共振させる試みだ。それには僧侶の宗教的ケアやスキルが不可欠だろうし、また一般的な終活に対する知識やネットワークも求められるだろう。あるいは、終活の実務者・専門家に対する、宗活の側からの啓発や教育も必要になるかもしれない。

終活から宗活へ向かう、という移行レベルではない。終活と宗活は互いを活性化させる、魅力的なインセンティブでなくてはならない。

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)