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2018/10/15 住職コラム:お墓と「生産性」

お墓と生産性について思うことがあった。

杉田某の恐ろしく低級な論考とその支援派が袋叩きにあって結局「新潮45」は事実上の休刊となった。その顛末に、最近の論壇の劣化と同時に、世論(特にSNS )という「気分」の危うさも感じるのだが、それはひとまず措く。

朝日新聞に佐伯啓思が同様の趣旨の論を寄せていて(10月5日)、本来議論されるべき論点として「生産性」「家族とは何か」「(LGBTは)嗜好か制度か」の3つを挙げているのだが、私にはそれが(いきなりジャンプするようだが)日本の墓問題と二重写しに見える。
むろんお墓詣りの行為に生産性を見る人はいないが、しかしあらゆる物事を生産性で測る考え方は墓の設置や維持(寺との付き合いも)を対費用効果で捉えるから、これを負担であり無駄と見てしまう。家族はいうまでもなく、単身化と無縁化が進み、家によるお墓の継承が前提とならない。

LGBTが「個人の嗜好か、社会的な制度や価値の問題なのか」については、遠からず決着はつくだろうが、さて今後の墓事情はどうだろう。永代供養はもはや「個人の嗜好」と区別視できないが、同様に従来の家の墓を制度ごと放棄することもできない。昨今の墓じまいブーム?とは要するに家の墓から永代供養墓への移行期的現象なのだが、このままそれが質的にも量的にも定着していくのか、終活世代が今の団塊から2世代くらい変わると、どう展開していくのか(AIの影響もあるだろう)、早々と結論を出すのは拙速かと思う。

佐伯の論は、当世の論壇や世論の不寛容を嘆くのだが、同様に私はユーザー本位で死者を扱う風潮に強く違和感を感じる。不寛容というより無節操に近い。
仮に永代供養墓の拡大が必定としても、だからそれを「安い」「便利」の生産効果だけで測るべきではない。家族なき時代、死者を誰が祀り、どう供養するのか、また共同体の風土や精神をどう掘り起こしていくのか、ユーザー任せではなく、そういう永代供養墓のあり方や仕組みを創案するのが、我々の新たな役割でないか。

お墓に高級も低級もない。私がとやかく言う立場でもない。ただ安価と利便性だけで打つようでは、本当に「永代」が担保できるのか、そこが不安でもある。

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)