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2019/1/21 住職コラム:もうひとつのお寺の「現場」~モニターレビュアーと表現世界~

お寺は博物館でもなければ、記念館でもない。たえず時間は流れ、現在が鼓動している。学校でも職場でもない、数多ある集客施設でもない。とりわけ生と死がふれあい、異界に接近するような「現場」があるはずだ。

伝統的な葬式や法事が、「現場」ではないとは言わない。だが、それにしてはあまりに形式と因習化が進み、臨場感も躍動感も乏しい。お寺の「現場」は、仏事だけではないはずだ。

そう思って20年、「葬式をしない寺」として試行錯誤をしてきたが、たかがひとつのまち寺の奮闘など、京都の観光寺院に比べれば認知度も資源価値も遠く及ばない。

いや、有名がいいと言いたいのではない。芝居にせよ、アートやNPOにせよ、現場は駆け足で走り去っていく。それゆえ、何がここで生起してきたのか、それをふりかえり顧みることがない。現場は変異するものだが、しかし同時に現場だけが歴史をつくり、そして人をつくる。その痕跡をいかに残していくのか。

その早い流れに杭を打つような作業が、17年夏から始まった應典院モニターレビュアーだ。十数名の若き演劇人(劇作家だったり役者だったりファンだったり)が名乗り出てくれて、毎月レビューの力作が應典院のホームページにアップされている(去年一年で70本超!)。むろん現場の流れは強く、一本の杭がそれを止められるわけではない。しかし、ほんの少し流れの角度や速度が変わるだけで、思いもかけなかった新しい表情が見えてくる。気づきが生まれる。

「レビューって結局自分を開示すること。それを文字にするとは修行みたいなもの」

とレビュアーたちは笑う。そんな一人称の声が響き合って、もうひとつのお寺の現場を描き出している。

いきなりだが、表現とは救済だ、と思う。上から頂戴する表現ではなく、應典院のように、自己と向き合い、他者と格闘しながら絞り出す表現とは、結局自己救済に近いものだと思う。

ある若いレビュアーがこう言った。

「應典院はしんどい人にとって居場所。ぼくもずっと落ちこぼれ感があって、周囲に馴染めなかったが、レビューを書くことで少しずつ認められるようになった。受け入れられたと思った。レビュアーは、自分にとってセーフティネット」

奇跡が起きて、救済されるのではない。おすがりでもない。わたしとあなたが出会い、身体ぐるみで協働しながら、少しずつ表現世界を作り上げていく。

お寺の現場とは、そういうものでありたい。そう思う。

以下、モニターレビュアーの力作です。
https://www.outenin.com/series_tag/review/

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)