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2019/3/27 釈徹宗:おてら終活 花まつり講演抄録「死では終わらない物語」後編

去る3月27日(水)、浄土宗應典院「おてら終活 花まつり」の初日の講演に、浄土真宗本願寺派如来寺住職、相愛大学人文学部教授である釈徹宗先生をお招きしました。
釈先生は、NHK「100分de名著」をはじめ各メディアでご活躍される、日本を代表する宗教学者であると同時に、「寺子屋トーク」や「コミュニティ・シネマシリーズ」へのご登壇、また企画段階から参加していただいた2015年の「セッション!仏教の語り芸~伝統vs創造~」など、最も應典院に関わりの深い仏教者のおひとりでいらっしゃいます。
今回、その際の講演録を、ライターの高橋佳恵さんが作成頂き、前後編の二回に分けて更新いたします。後編では「宗教的ナラティブ」や「物語り」の持つ意味合いを説かれました。


■宗教的ナラティブ

ご存知の人も多いと思いますが、ブッダは死後の世界について明確に答えなかったとされています。「語り得ぬもの」だからです。語り得ぬものには沈黙を、とヴィトゲンシュタインみたいな態度だったんですね。しかしその一方で、仏教は各地の信仰や宗教心を取り込んできました。そして多様な仏道体系を構築してきたのです。世界中どんな宗教でも、死にまつわる物語りをもっています。前世や来世の物語りは宗教の本領です。もちろん仏教にも豊かな見えない世界の物語りがあります。まずはそういった「死を超えて続く物語り」に耳を傾けてみることをお勧めします。
ところで、『大般涅槃経』には、ブッダの最期の様子がリアルに描かれています。それは人類史上屈指の宗教的天才・ブッダの臨終というよりは、一人の高齢者のそれであるという感じがします。ことさら取り繕うことない臨終の様子を、2500年以上も伝えてきたところに仏教の特性を見る気がします。もしブッダがイエス・キリストのように30数歳で亡くなっていたら、仏教は今とはずいぶん違うものになっていたかもしれません。ブッダは八十歳の高齢者として、老病死を体現しながら涅槃へと向かったのです。

また、臨済宗中興の祖白隠禅師は、「やがて誰もが病床に臥す日がやってくる。それはある意味で出家と同じだ。だからわざわざ出家などしなくてもいいのだ」などと言い放ったそうです。その白隠禅師は、病床における三つの公案を残しました。

一、死を極むべし。
徹底的に死と向き合い、自分の身は他者に委ねよ。
二、息に依る
この一呼吸は人生最期の呼吸であると感じながら、ひたすら呼吸に専念せよ。
三、願を励ます
この身が滅びても、他を潤す存在となれ。

実に興味深い知見であると思います。
あるいは、曹洞宗僧侶であり歌人でもあった良寛(70歳)の最後の歌はよく知られています。良寛の末期は、弟子である40歳年下の絶世の美女貞心尼がお世話していました。日に日に病がひどくなり、苦しむ良寛。貞心尼の歌に対する返歌として、詠んだのが次のようなものでした。
うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
みっともないところもさらしながら死んでいかねばならない、というわけです。

これらの仏道を歩んだ者たちの「死にまつわる物語り」と出遇うだけでも、何か死をホンの少し手元に引き寄せた思いになりませんか。それが物語りがもつ力です。
生(日常)の物語りと、死の物語りとは、鏡像関係にあります。死の物語りへと耳を傾けへ、身をゆだねることは、生の物語りを再生させることでもあります。そこで、人類によって連綿と受け継がれてきた「死を超えて続く物語り」に注目していただければと思います。ある局面では、それが驚くほど機能するのです。それらは代替出来ない性質ものです。宗教的ナラティブと呼びたいと思います。

実は、今の社会は、死に関する「情報」は蔓延しています。現代社会の死に関する「情報」と、宗教的ナラティブとの違いは何なのでしょうか。情報は常に消費される性格を持っており、新しい情報が手に入れば、古い情報は不必要になります。しかし、ナラティブ(物語り)は、一度出会ってしまうと出会う前の自分には戻れません。さらに、「この物語りは、私のためにあった」という事態になれば、もう他の物語りは不必要となります。まさに、それは「真実」としか表現しようのないものとなります。宗教の救いとはそういうものだと思います。
死とは、一面では冷徹な生物的現象ですが、物語りを通して見ますと様々な共鳴を起こす豊かであたたかなものでもあるように感じられるのです。

■直観的物語りと道の物語り

病床での様々な思いを新聞に連載(『病牀六尺』)』していた正岡子規に、清沢満之(真宗大谷派僧侶)が手紙を送っています。そこには、

一、苦しい時、不安な時、仏さまと共にあることだけを信じる
二、それができないなら、人間の限界があることを自覚して、現状を受け容れる。痛けれ
ば痛がる。全宇宙の変化に従い、まかせる
三、それもできないなら、泣きわめけ。のたうちまわってもだえよ。なすすべもなく死んでいくのみ

この3つの選択肢から、これだと思うものを選んでみてはどうだろうか、との正岡子規への提案が書かれていました。これを読んだ正岡子規は、一と三は自分に合わないが、二は最もしっくりと来ると感じ、安らぎを得ることが出来たと言われています。

宗教的ナラティブは、「直観的物語り」と「道の物語り」の二タイプがあると思います。前者は、何かの前提なしに共感できる物語りです。後者は、ある体系の道筋を歩んでこそ共感できる物語りです。
先の正岡子規のエピソードに当てはめてみますと、一の提案は誰もがすぐに共感出来るものではありません。仏道を歩まないと実感できないでしょう。たとえば、今生の息が絶えれば、浄土へと往生するというものも、浄土仏教の道を歩むからリアルになるのです。宗教が語る「死では終わらない物語り」は、ただ死への恐怖を緩和するためのフィクションに過ぎないのではと感じたり、とても陳腐に感じたり、とてもコミット出来ないという人もいますよね。それは当然のことでして、道を歩まないと共感できないんです。そういうのが「道の物語り」です。

正岡子規が選択した二の提案は、特定の信仰や思想がなくても共感・共鳴できたりします。「直観的物語り」系ですね。三の提案は、そういった物語りを拒否する態度ですね。これはこれで、ひとつの在り方だと思います。とにかく、正岡子規もまた、清沢満之の手紙によって「自分のための物語り」と出会い、別の扉が開いたのでしょう。

いずれにしても、死の問題は思い通りにデザインできません。しかも、不条理であり、不合理な事態です。死の問題も含めて、身の上に起こる・身の周りにある不合理なものと出会った時、それをつまらないものだとするのか、それを慈しむかのかが、分岐点じゃないでしょうか。

■終活は現代社会からの要請

終活は、我々ひとりひとりが、現代社会から与えられた宿題です。終活ブームの背景には、終末期医療の問題や、社会システムの問題などがあります。我々は、事前に意思表明しておかねばならない案件をいくつも抱えています。しかし、社会から求められる実務的な終活で、死の問題は解決しません。今日は、「死後の世界はあるのか、ないのか」といったお話を期待して来られた人もおられるかもしれませんが、それは自分がどの道を歩むかによって変わってくるものです。自分がどの宗教的ナラティブに身をゆだねて生きていくのか、それによって死の意味も変わるのです。
まずは宗教文化に目を向け、死を超えた物語りに耳を傾け、死の問題と向き合ってみる、というのはいかがでしょうか。死は決して自分ひとりの範囲にとどまるものではありません。様々な共鳴・共振を起こす豊かなものでもあります。

人物(五十音順)

釈徹宗
(宗教学者・浄土真宗如来寺住職・相愛大学教授)