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2019/11/18 住職コラム :「看護連携」~コミュニティケア寺院構想がスタートする~

新年早々に始まる、お寺の終活プロジェクトの第2フェーズは、「看護連携」だ。訪問看護、介護とのお寺との連携に取り組む。コミュニティケア寺院構想がスタートする。

観点は「地域包括ケアシステムの限界」と「寺院消滅時代における寺院の社会事業」の2点だ。

2025年を目指し、地域包括ケアシステムが普及していく一方、地域における看護・介護のあり方について様々な課題が上がっている。とりわけ地域互助のための拠点(場)や担い手の不足、また自宅へ赴く看護者・介護者へのサポート体制の構築が指摘されており、「地域社会の力を活用する」という本来の理想にはまだまだ及ばないのが現状だ。既存の枠組みにとどまらず、新たな社会資源を開発し、そこにもう一つのテーマや人材を投じることで活性化を試みることはできないか。

一方、お寺の現状はジリ貧である。先日発表された浄土宗宗勢調査でも全寺院の4割が年収300万円未満であり、5割を超える寺院の住職後継者が決まっていないという。「寺院消滅」はリアルに迫ってきているのであって、フォーマットの転換が早急に必要とされる。本来活動であるところの葬儀や墓は、従来のままでは一部を除いて終息していく。永代供養墓がブームだが、「価格」「立地」を競っているだけなら市場主義と変わらない。それぞれのローカルに深く根づいた社会資源としてのお寺は、過去の「遺産」を食いつぶして自滅していくのだろうか。

そこで、「コミュニティケア寺院/僧侶」が注目される。
すでに終生期医療の世界では、「人生会議(アドバンスケアプランニング)」が普及しつつある。もしもの時のために、患者が望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取り組みなのだが、問題はその話し合いの「質」だ。家族には生死を語るチャンネルがない。ドクターやナースがあなたの死生観を語るわけではない。治療の「質」でなく、生活の「質」をどう語り合うのか。家族でも医療・看護者でもない第三者の参加が必要となるだろう。死を語るもう一人の専門家。そこにコミュニティケア寺院/僧侶の役割が生まれる、と思う。

もちろん僧侶がスピリチュアルケアの見識やスキルを体得することがベストだが、相当な学習と経験が必要となるだろう。それを最終目標としながらも、まずは死後のとむらいの安心を提供できる専門職として、人生会議に参加することができないか。地域包括ケアシステムには、看取り以降の人生課題は記述されていないが、多くの患者の不安は、末期の医療・看取りと並んで、その後の葬儀や墓、供養についてである。規模や形態はともかく、とむらいなき人生はあり得ない。

むろん看護側にも懸念はある。ベッドサイドに唐突に坊さんが現れて、(いくら本人の希望といえども)「葬式は、墓は」とやられては忌避感があるだろう。私の言うとむらいは、死後の関係性を紡ぐことであって、サービスの提供ではない。そこにも会議の「質」という課題が残るだろう。コミュニティ寺院は、終生期以前の、日常生活の段階からもっと死生観醸成の拠点としてやれることがあるのではないか。全国の浄土宗寺院で「介護者カフェ」がじわじわ広がっているように、地域に根付きながら、草の根的に人々の心と関係を持続的に開発するのである。その場のあり方についても考える余地は大きい。

昨年7月からスタートしたお寺終活プロジェクトでは、「宗教的ケア」「人材としての僧侶」「とむらいのコミュニティ」の3つを挙げた。「看護連携」はその3つの主題を含みこんだ、大きな構想だ。同時に、ここでもなんども書いてきたが、永代供養墓をビジネスではなく、本当のご縁結びのインセンティブとするためにも、一つのアプローチになり得ると思う。
*僧侶と看護・介護職を対象としたイベントです。定員50名。お早めにエントリーしてください。なお、申し込みはFacebook参加ボタンだけではなく、ホームページの「申し込みフォーム」よりお願いします。

看仏連携<看護と仏教>地域包括ケア寺院の可能性を考える
https://www.outenin.com/article/article-15124/

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)