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2021/2/15 【住職ブログ】死の尊厳を、データログ主義からどう守るのか

コロナの緊急事態となって、医療崩壊とともに病床における「死別の場面」がしばしばテレビ報道されるようになった。タブレットを集中治療室に持ち込んで最期の別れを交わしたと放送されるのだが、病院側の映像だし、了承あってのことだろうが、私にはどこか判然としない思いが残る。
面会ができない今、「次善の策」であることはよくわかる。医療者の良心もわかる。タブレット越しの看取りを家族も感謝しているのであろうが、これをボカしとはいえ、無差別に報道することに意味はあるのだろうか。
視聴者のニーズは高いのだろう。高齢者にとって切実でもある。「いやぁ、つらいねぇ」とか「こわいねぇ」とか言って人々はお茶の間で見ているのだろうが、晩御飯中だったり、片方でアニメ見ていたり、決して居住まいをただして見ている訳ではない。それがウエブ上に乗っかって拡散していくのだ。死が、死別が、動画データとして個々人のデバイスに格納されていく。
最近お葬式で、式後のお別れの場面に、スマホでご遺体を動画収録している家族を見かけるようになった。家族が撮影して、あとで見返すのはあるかもしれないが、それは万が一にも他人のスマホへ転送されないとは限らない。私は古いのかもしれないが、その時の違和感と似ている。
死別はもちろん、死にある人や家族との対話は、世俗とはまった異質の時間である。生と死が切なく交感する場面は、双方にとって生涯唯一度の感慨がこみ上げる瞬間であろう。
私は、それを心にはとどめたいが、動画データに記録したいとは思わない。ビデオボタンを押した瞬間、私が別人になってしまう自己の不遜を恐れるからだ。
死の尊厳を、データログ主義からどう守るのか、私勝手ではあるが、重要なテーマだと思っている。

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)