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2021/5/17【住職ブログ】葬式仏教と「信仰なき実践」

去年2月に派手な広告展開でスタートした「お坊さんのいないお葬式」が、営業を停止した。今月末でホームページも閉鎖してサービスを終了する。要するにネットで直接葬儀会場を紹介するビジネスモデルだったのだが、代わりに「想送式」とかいって、当初から胡散臭かった。

 *「お坊さんのいないお葬式」があってもいい 記事 https://cutt.ly/MbVyoZdㅤㅤ

やはりお坊さんは必要、という妙な安堵もあるのだが、しかしこれほど葬式仏教が批判もされ、忌避もされながら、しぶとく生き残る理由はなんだろう。これは日本人と宗教の関係にも論が及ぶ。

宗教学者岡本亮輔氏の「宗教と日本人」(中公新書)を読んだ。そもそも日本の伝統宗教は昔から信仰が主題化しない。現代仏教は、「信仰なき実践」であって、その典型が葬式仏教なのだ、という。逆転の発想ともいうべき、葬式仏教の近代的創造性を説いている。
戦後、およそ葬式の仏教離れは進んでいない。「葬式は、要らない」といいつつ、実態は一貫して仏教の寡占状態にあるのだが、それには理由がある。

 簡単に言えば、死者を送る作法として、「葬式仏教を利用するのが便利だから」。ㅤㅤ

死者の弔いだけでなく、社会的な告知や遺族の癒し、親族や知人との感情交流としても実践的な機能を備え、またそれは長い時間をかけて整備され洗練され、人々の欲求に応えられるよう定着してきたのだという。
だから、「葬式仏教批判は、葬式仏教の存続を前提」としているのであって、別の言葉で言えば、「葬式仏教への社会的な信頼」の裏返しなのだ。それに応えるべく、「現代仏教に求められているのは、信仰の復活や布教ではなく、葬式の創造的な改良」なのだという。

葬式の場こそ最大の教化のチャンスと考える僧侶は多いだろう。それはその通りなのだが、たとえ信仰が不在であったとしても、葬式仏教は死者儀礼、あるいは社交や治癒の場として多くの機能を備え、社会的な合意や落着がある。僧侶は宗教的意味を強調するが、遺族にとってはもっと総合的な場であり感情の交流であるのだろう。葬式仏教をとらえる双方のベクトルのズレは認識しておいたほうがいい。

私は葬式の場における読経も法話も、僧侶の普段からの姿勢次第で「創造的な改良」に値すると思う。問題は、遺族に寄り添うこともなく、言葉も作法もおろそかなお坊さんの存在だろう。また「お坊さんのいないお葬式」なんぞが復活しないよう心していこう。

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秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)