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2022/8/10【住職ブログ】ケアとしてのお盆

 ケアについて一番必要なものは、想像力だ。グリーフもそう。仏教者の資質は、と問われても同じ回答をするだろう。利他的なものを考えるとき、誰がどんないいことをするかより、すでに自分が過去の先人から多くの利他を授かってきたと知覚できるかどうか。これにも想像力が必要だ。
 最近、京都のNPO、Deep Care Labの設立メッセージを読んで、いたく同意した。「あらゆるいのちへのケアする想像力」とタイトルにある。ケアを医療や福祉の狭い世界に閉じ込めないで、時間的にも空間的にも生体的にも(樹木や苔にケアされる!)あらゆるいのちの関係性の中に見て取るまなざしと態度の大切さを筆者たちはくりかえし語っている。つまり「関係性を再発見することで、自ずと自分はどう向き合えるの、を考え、ケアの気持ちが湧き上がり、それが小さな実践の形のつながる」のであって、そのようなケアにとって、「想像力は最後の資源であり、私たちはあらゆる想像力を自分たちの手に取り戻さないといけない」と述べている。
 社会の不公正を質すため、公共善を追求するため、ではなく、ケアの動機はもっと個人的なセンスから立ち起こるのだ。
私なりに読み直してみる。もうすぐお盆が始まる。今年もコロナの影響はあるが、それでも多くの人は最小限でもできることを勤めたいと思う。仏壇を整える。墓参りに行く。僧侶は棚経に施餓鬼と忙しい。時に省略されがちではあるが、そういう「風習」が、今なお引き継がれているのは、生きていく上で大事な想像力を絶やさないためではないか。先祖供養という形式を借りながら、「わたしをわたし以上のいのちとの関係の中で問い直し」「自分の枠組みを超える」貴重な「ご縁」と心得ているからだろう。普段は忘れがちであるが、決まった季節がめぐるごと、そういう想像力が再起動されていく。使命感や義務感のためでなく、ただ連綿と続いてきたものを受け継いでくりかえし磨き込んでいく。その無為の蓄積の行方に、本当のケアする心が生じるのではないか。
 お盆が、そのように人々に認識されているかどうかはわからない。ただ豊穣の資源を備えながら、けっして十分に発揮されていないとしたら、我々僧侶に帰する責任は大きい。
Deep Care Labの設立メッセージはシンプルだが名文だと思う。お寺がケアに関わるというのはどういうことなのか、その指標となるものと出会った気がする。必読だ。(同心円の図はDC Lのウェブサイトから転載しました。)
【Deep Care Labのセミナー:わたし(たち)のウェルビーイングを探求する対話&実験の学び場 Weのがっこう】