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2022/10/31【住職ブログ】「宗教法人」の自覚的な問題提起の必要性

宗教学者25名が連名で「旧統一教会に対する宗務行政の適切な対応を要望する声明」を出した。
異常な宗教法人に対しては法律的な要件を早急に明確化すべきだが、しかし一方で日本の司法やメディアが宗教に対し真っ当な判断や基準を持ち得るのか、危うさみたいものも感じる。声明にもあるが、解散請求や質問権の乱用がないか。注意深く見ておくべき必要がある。
それにしても、宗教に対するリテラシーが(今回の政治家がそうであったように)本当に浅いというか、軽い。「宗教は暴力装置にも差別装置にもなり得る」のであって「取り扱い注意案件」(釈徹宗)という社会の認識が欠落してる。
日本宗教連盟も9月の時点で同問題に対し理事長談話を発表している。
「日頃より、氏子、檀家、信者、信徒の人生における喜びや悲しみ苦しみに宗教者として寄り添っており、地域の皆様方とともに地域の信仰文化と、コミュニティを長年にわたり守り続ける努力を重ねています」。
つまり、一緒にしてくれるなということなのだが(私も同感なのだが)、どうんだろう、メディアの面白おかしいニュースショーとかでは悪ノリが始まっているようにも感じる。「お布施はブラックボックス」「非課税はザル法」等々、いつもの切り口である。札幌の納骨堂破綻の話も、似たような文脈で扱われてはいないか。
研究者は共同声明で姿勢を示したのだが、では現場はどう応答すべきなのか。教団も、声明とかは出すかもしれないが、それが何かの認識を深めたり、行動を変容させるものとなり得るのだろうか。残念ながら、心ざわめくものしか感じない。オウムの時と同じなのだが、そもそもこの問題が自らの問題であるという当事者性が驚くほど希薄なのだ。
宗教者として回答すべき、と言われても、壇上に上がる立場でもないし、度胸もない。教団のレベルでは、多数の安全優先だから、本当の責任は取れない。個々のお寺が、つまり幾多の「宗教法人」が、自覚的に問題提起で返していくしかない。私たちは何者なのか、社会においていかなる役割を担うのか、という自らへの根深い問題提起である。