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2022/12/31【住職ブログ】宗教危機の時代に、私たちにできること。コンパッション都市へ

今年後半はずっと統一教会をめぐる報道で持ちきりだった。

「政治と宗教」というが、要は票数稼ぎの癒着・馴れ合いの話で、迫力に欠く。ところで創価学会は?という切り返しが見られなかった。

しかし、これほど宗教が社会の注目を集めたことも珍しく、一線の知識人が宗教を論じあった。島薗先生や釈先生の見識が開陳される機会が多くあったことは、不幸中の幸いでもあった。だが毒も薬も十把一絡げで、ワイドショーではお寺の寄付・布施について騒ぎ立てたりもした。

政教分離とは、宗教の政治関与を禁止するものはなく、特定宗教の肩入れを禁じているに過ぎない。初めて知った人も多いのではないか。選挙の応援だけでなく、もっと政治について真っ当に宗教側から提言して「経験値」を高めていく必要はあるだろう。

SDGSも大事だが、私の場合は、都市政策への参加になる。いや、お寺中心のまちづくり、ではない。経済的繁栄を優先する社会通念に、異なる対立軸を差し込む。教育もそうだろう。疲弊した学校教育に対して、オルタナティブな場と学び(あそび)を創造することも間接的な政治参加と言えないだろうか。真面目にいうのだが、目指すのは社会変革である。議員さんと記念写真撮っても何の意味もないのだ。

「宗教2世」が流行語になった。では、われわれ先祖仏教はなんと返せばいいのか。長い歴史において、同じ信仰を持つ人が家族を築き、代々の先祖を祀ってきた(話題の映画「アバター」だってそれがテーマだ)。釈先生が指摘する通り、問題はカルト教団であって、「カルト2世」が適切だ。

「宗教教育」とか「宗教リテラシー」とかも、議論の的となった。ずっとここでも書いてきたことだが、「カルトの真贋を見極めるため」だとしたら、必要悪のようなものだろう。先述したように宗教を、社会のあるいは生き方のもう一つの価値体系として捉えられない限り、予防対策としての宗教教育でしかない。

「騙されないため」のリテラシーだとしたら、寂し過ぎないか。
中外日報の新年座談会(23/1/1)で、カルトからの脱会支援に取り組んできた瓜生崇先生が「自分が救われたいと思ったら既存教団にというのは選ばれにくい」と言っている。「伝統教団自身が<宗教は危なっかしいものだ>という認識を失ってしまった」。

そうなのだ。宗教は世間的なものとは別の価値を提示できるから宗教なのであって、ある時において毒気さえはらむ「危なっかしい」ものであったはずなのだ。だから少なくとも世俗に適応して棘を失ったかのように見える伝統教団に、残念ながら宗教の本質的な魅力は乏しい。自分もそうした世俗に位置していることを自覚しながら、では、伝統仏教のわれわれはどこへ向かえばよいのだろうか。

中外の同じ座談会で櫻井義秀先生が「伝統教団が宗教性をかなり薄めた形で慣習の宗教になってしまい。宗教の勘所がなかなか伝わってこない」と述べているが、それに異論はない。先祖供養を中心としている限り、「危なっかしいもの」「宗教の勘所」が表出させることは難しい。そうしたプロトタイプから意図的にあるいは戦略的に異なる立脚点を持たない限り、ひたすら慣習化に没入することになる。それを否定するものではないが、宗教の本質的な魅力がそこにだけにあるのではないことに認識しておくことは重要だ。

宗教の魅力を掘り起こすための立脚点として、今でいえば子ども食堂やホームレス支援等があるといえるのかもしれない。公共善の場として、お寺が開かれるだけで意味はあるが、本当に大事なことは何をやっているか、ではなく、そこでどのようなかかわりや語り合いがあるかだろう。子ども食堂にだって「宗教2世」はいるのかもしれない。

リテラシー教育が浸透することに越したことはない。それがどこかの大学の講義でなくても、まちのお寺に若いうちから出入りしていれば一定のリテラシー感覚は身につくはずだ。それもまた先祖供養だけでなく、そのような場があるかどうか、今で言えばプログラムの創案も必要だろう。

都市政策による政治参加と前述したが、私にできるのは政策提言でも陳情でもない。
あまり詳細は書けないが、お寺を中核としながら、少子で多死な社会における理想的な暮らしのエリアをつくることである。保育、教育、福祉、看取りやグリーフまで包摂できるような「コンパッション(慈悲による)都市」を構想することである。既存の政策や共通解とは異なる視点からの都市のデザインを志す。その中核には宗教がある。万事が経済優先の施策ではなく、哲学、芸術の視点にも重きが置かれるだろう。

統一教会問題は由々しき宗教問題である。それを対岸の火事のように見物しているのではなく、われわれの問題として引き受け直し、当事者としてどう社会に対し解き直していくのか、来年は大きな転機となるに違いない。希望を持って臨みたい。

1年間ありがとうございました。よいお年をお迎えください。南無阿弥陀仏。