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2023/3/8【住職ブログ】”無為の場所“たる意味を解きなおすための社会活動

 大正大学でお寺は社会的資源になり得るか、について議論があった。浄土宗の若手研究者が研究成果を発表した。残念ながら聴講できなかったが、ずっと同じ思いを述べてきた身としては、感慨深いものがある。「應典院さんはスーパー寺院」「住職のハイパフォーマンス」みたいに言われてきたが、要するに寺や住職の比較ではなくて、資源力の評価でありその運用である点に着目されているのだと思う。百の地域があれば、百のお寺の地域資源力がある。それを「力」に変えていくのが、ポイントなのだけど。
 真反対の話をする。先日芸術人類学者の研究者と話していて、ふと昔、哲学者の鷲田清一さんからもらった「應典院は無為の場所たれ」という言葉を思い起こした。その折には今ひとつわからなかったのだが、この年齢になってしみじみと感じ入る。あくまで個人の認識だが、地域資源が進化した最終形は、結局、生活圏にどれだけ「無為自然」の景色となるか、真逆の境地にあるように思う。
一例を挙げよう。死の問題はずっとタブー視されてきた。近年、生涯課題として注目され、研究が進み、市民活動にまで裾野が広がることは結構なことなのだが、それらと地域に在する数多の寺院とは無関係に進んでいるように見える。それを仏教の衰退、寺院の無力化に帰結することは容易なのだが、見方を変えれば、お寺があまりに風景化(無為化)されており、今風の福祉とかケアとかという要請に応えられなくなったからではないか。市民社会は、寺が無為であり続けることを許さないのだろう。
 無為とは現代では否定的な語意だが、本来生滅・変化しないものであり、仏教では絶対他力に任せることをいう。作為がない、変化しない。何もしないのである。果たしてそういう場所が現代社会にあるか、いや存在しうるのか。
近代は何かをする(doing)ことを優位として、生産も消費もないことを「無為徒食」と下等視してきた。私も率先してきたが、寺も「有為転変」と変わり(ひらき)続けることを試みた近年であったような気がする。しかし、25年以上もイベントとか発信とかある意味やり尽くした私にとって、結局すべてが去った後、底から浮き上がってくるものは、何もないこと(being)、無為の存在であると感じられるのである。言い換えれば、「無為の場所」たる意味を解き直すために、私たちは寺をひらき、社会に向かって資源化しようとしているのではないか。
 観光資源とか、社会資源とか、なんでも「資源化」するのがブームである。市場も枯渇気味、ネタ切れなのだろうが、お寺の地域資源という言葉が、観光資源と誤読されないよう願う。地域資源として大いに開いてもほしい、介護者カフェも看仏連携も、意欲的な実践であることは間違いない。しかし、それは寺を健康施設に作り替えることではない。過ぎ去った後に、どれだけ本当の景色が見えてくるのか、そこへ小さな不安と、大きな期待を抱いている。
 寺を開くことは無為の否定でなく、新しい無為へ向けての再構築でなくてはならない。