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2023/5/9【住職ブログ】間違いだらけの墓じまい。肝心は寺檀のコミュニケーション。

帰省シーズンのGWを意識してだろうか、新聞に「墓じまい、トラブル回避するには」と大きな見出しが躍っていた(朝日4月27日付)。「実家近くの住職、<改葬は認めない>。説得続け、離檀料計100万円」と続く。記事には「一方的に寺に通告すればトラブルになる可能性が高く」「事前に親戚らとよく話し合って、寺を説得する」とあり、「一般的な離檀料は‥‥」とまとめている。総じて最大の障壁は、お寺であると言わんばかりである。
離檀料という用語はそもそも造語てある。憲法において信教の自由は保障されているのだから、これを拒むことはできないし、そういう料金制が最初からあるはずもない。が、当然、墓じまいに伴う祭祀や手続きは必要であって、それをメディアが解決金のごとく「離檀料」と命名したのであろう。
そもそも墓じまいとは、何らかの事情で遺骨を自分が住む都市部の納骨堂などへ移す「改葬」をいう。遠方でお墓の管理が難しい、少子化で供養の継承が困難など、止むを得ない理由があることだろう。それを理解できない住職はいないはずだが、離檀料という言葉が人口に膾炙して、それならば、と「請求」する事例があるかもしれない。
この手の記事に必ず国民生活センターとか消費センターが登場して「墓じまいの苦情増大」と誇張するが、メディアの扱いはどこまでも消費者問題であって、つまりお金で解決可能な問題としたいのだ。
離檀を申し出ると、寺がごねる、法外な離檀料を求められる、だから事前説明を尽くしておこう、というのもいつもの記事のストーリーだが、消費者目線に過ぎないか。なかなかお参りできないにしても、普段のお寺とのつきあいや連絡はあったのか、「いつもお世話になっています」もなしで、いきなり「離檀したい。いくらかかる」では、住職も心外であろう。お寺の側も、定期的に寺報や通信を発行したり、年回の案内をしたり、互いをもっと「知る」努力はあったのだろうか。お寺と檀家の関係はサービスの需給ではない。長い時間軸で先祖をどう祀るのか、供養するのか、という視点がないと、全て「(祭祀)財産の管理問題」にすり替わってしまう。
いきなりジャンプするようだが、旧統一教会問題で、またぞろ宗教への疑問視が強まっている。一緒にしてくれるなといいたくなるが、別に見立てをすれば、これからお墓の供養をどうしたらよいか、も、身近な宗教を考える一つの機会と言えないだろうか。それも厄介で面倒なので、消費問題で終わらせようというのだろうか。
自慢めくので細かく書かないが、大蓮寺と檀家の相互理解は100%ではないにせよ進んできたと思う。毎月の寺報発行などは、こちらが驚くほどよく読んでくれている。むろん離檀料という考え方も存在しない。
もちろん都会のお寺、地方のお寺、立場は違う。檀家一軒の墓じまいの影響は、地方寺院では深刻なものだろう。代々供養してきたお墓を、物品移動のように簡単に言われては、心穏やかでもない。記事には「墓じまいではお寺と交渉、説得が必要」とあるが、そもそもスタンスが違うのだ。
たまにだが、大蓮寺で墓じまいの受け入れを打診されることがある。私は、「菩提寺さんにはきちんとお話されましたか」「ご了解をいただきましたか」と念を押す。相談があれば、私の意見を述べる(もめたという話は聞いたことはない)。長くお世話になった故郷のお寺さんにどう振る舞うのか、礼を尽くすのか、単純な苦情処理ではなくて、ある意味「作法」「心得」を丁寧に伝える第三者の存在も必要かと思う。