イメージ画像

2023/5/9【住職ブログ】「信教の自由」にどう応えるか。地域のお寺だから、できること。

連休前に2日続きで、大蓮寺本堂で初めて「PTA仏教教室」を開催した。園で子どもが毎日勤めているお作法と心得をともに習いましょう、という趣旨で、念仏や瞑想を経験し、釈迦伝を聴いた。学校行事とはいえ、平日の朝からのべ60人の両親が集まってくれた中には初めて経典を開いた人もいるのではないか。子育てとか先祖供養とか、いつもの話はおいて、(ちょっと刺激過ぎたかもしれないが)ストレートに響いたと思う。
話はまったく変わるが、今日5日の朝日新聞のトップに「旧統一教会への質問権行使 宗教法人「妥当」6割」とトップ記事があった。単純化して言えば「解散要件に該当するか」の見識を問うものものだが、63団体のうち33法人が未回答、回答したうち12法人が「妥当」、9法人が「どちらかと言えば妥当」、3法人が「妥当ではない」とした。奇妙なことに紙面コメントには、創価学会、生長の家、霊友会と新宗教がずらりと並ぶ。日蓮宗が「憲法で保障された、信教の自由を逸脱しないよう、政府の慎重な対応を求めたい」が目を引くほどだった。
 識者コメントには憲法学者の両論併記があるのだが、慶應大学の小林節名誉教授の「宗教は外から見れば異様だ。信じる人には正義でも信じない人には変なもの。変なものという少数派を権力が弾圧すべきでない」(要約)というコメントに、少し安堵もした。旧統一教会のやっていることは、宗教団体としてむろんアウトなのだが、だが権力の介入を公器たるメディアが断罪し、それを信者10万以上もの宗教団体が「追認」しようとする事象は、本当に「正しい」のだろうか。私にはその辺りがよくわからない。
 メディアではNHKの「こころの時代 シリーズ・カルトと宗教」が気を吐いている。毎回濃密な議論が続くのだが、「宗教団体と法規制」の回では、田中優子氏が「孤独の時代」におけるコミュニティの不在とカルトの侵入を指摘して、「宗教問題というより社会の問題として捉えるべき」と発言していた。それをフォローする形で、憲法学者の駒村圭吾氏が、「代表的なコミュニティたる宗教団体と家庭が長くアンタッチャブルな存在になり、密室化した。聖域やプライベートという名のもとに社会は無関与、無関心となり、むき出しとなった個人に対し、カルトが侵入してくる。勧誘を受ける側の心の準備や免疫が必要」という発言が興味深かった。憲法上の議論はおくが、田中氏も駒村氏も権力介入ではなく、社会のコミットメント、コミュニティのつながりの再生を説いている。
 先のアンケートに浄土宗を含む伝統教団がどのように反応したのか、知らない。また7千ヶ寺の総意を教団がまとめられるとも思わない。「信教の自由」を訴えることは重要だが、同時に宗教の、お寺によるコミュニティの再生への道のりこそ、渦巻くカルト問題に対する我々の唯一の回答となり得るのではないのか。
 冒頭のPTA仏教教室で、参加したある父親が後日メールでこう感想を送ってくれた。
「幼稚園には日常の中にみ仏様とそれに帰依する者の(時にそれは立場を入れ替えながら)<おかげさま>の連鎖があるのだと思いました。本日のお話はありがたく持ち帰り、家族の者たちと話したいと思います」
 これも一つの「心の準備」と言えるのではないか。
 権力と対峙するにはあまりにささやかだが、こういう地域、学校、家族のそれぞれのコミュニティにおいて、長い時間の堆積を持つ伝統宗教は、進んで歩んでいく以外にない。