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2024/2/19【住職ブログ】spritual but not religious。伝統仏教の行方

宗門のある研修会に出かけたら、講師の僧侶が、浄土宗の開宗800年の慶讃(記念)事業の無策ぶりをあげて壇上で大息した。例えば全国各都市で開催する大掛かりなフォーラムについては、まぁ、広告代理店が仕掛けているのは自明なのだが、一つ開催するのにン千万もかかっていながら、「有名人呼んで、関係ないこと喋って、お念仏の一言も、ない」、といって嘆くのである。

企画者たちが代理店の言いなりだったとも思えないが、ただ「大衆教化」(この言葉自体錯誤しているが)などというと落とし所がこうなるのであろう。総事業費何十億というような規模が、意思決定を迷わせるのかもしれない。
浄土宗の批判をしたいのではない。私が興味を持つのは、この講師さんが願うようなストレートな教化精神がどこまで通用するのか、という伝統仏教の行方についてである。

話は変わるが、米国の世論調査機関が、無神論者や不可知論者を除いた、nonesの拡大を指摘している(以下は中外日報2月2日付引用)。nonesとはnothing in particular(特に何もありません)に区分される人々でいわゆる無関心層である。「何もない」層は多くが既存の宗教の教えに懐疑的であり、教団への嫌悪感を示す。宗教にかかわる時間がないという答えも44%に上るという。しかし、その半分は自らをスピリチュアリティは人生において重要と考えているのが、SBNR(spritual but not religious)層を裏付けているとも言える。

外国の統計をそのまま当てはめるつもりはないのだが、多分同じような現象が、ある意味、原理性の強い米国よりいっそうこの国で広がっているように思える。際立っているのは若い世代、これからの檀信徒予備軍である。
もともと曖昧で、受け身な民族である。欧米のような明確な信仰の指標に乏しく、だから「おかげさま」「ありがたい」「つながり」というような「無自覚な宗教性」が培養されているともいえる。自分の信仰(家の宗旨ではなく)について理解は薄いが、そういう雰囲気とか態度、空気には惹かれる、のだろう。
卑近な例だが、年中行事には来ないが、寺ヨガには来るというような若奥さんタイプなどは、日本的なSBNRにアピールするのだろうし、先に述べた「大掛かりなフォーラム」もここを対象にしたいのだろう。教団も「大衆教化」なんて意識したらそうならざるを得ないのである。もう一つ付け加えておくと、それをさらに社会参加や社会貢献へシフトすれば、宗教の認知や評価は上がるかもしれないが(私は期待もしているが)、しかし、それが、開宗800年にふさわしい慶讃事業となるかどうか、別問題だと思う。

ちなみに当該の講師さんの時代認識は的確であり、今こそ法然教に戻れという姿勢に間違いはない。それでしか宗派仏教は生き残れないと思うが、同時に、それだけにすがって生き延びることも難しい。法然教とSBNRというもっとも反発していそうなモチーフをどう紡いでいくのか、これからの社会化の起点であるとも思う。

 

追記:ちなみに大手広告代理店はすでにSBNRのマーケティングに着手しており、頭文字を「Soul=こころ、Body=からだ、Nature=しぜん、Relationship=つながり」と読み替えて精神的豊かさにつないでいる。この辺りの目敏さはさすがだねぇ。