2025/1/7【住職ブログ】地方消滅時代とローカリティ、心の地域資本を目指して。
秋から冬にかけて地方を巡った。私の場合、訪問先はたいていがお寺か、幼稚園・保育園なのだが、人口減少・地方消滅といわれる中、しぶとく生き残るローカルの力強さにふれることが多い。2つのケースを紹介したい。
佐賀県多久市の専称寺は、庫裡の一部をギャラリー空間にして、そこに寺史八百年の寺宝を公開した(写真)。浄土宗「てらギャラ」協賛企画だ。(専称寺:https://senshoji.jp/)
県の指定文化財などお宝がザクザクなのだが、驚くのは、展示から照明、キャプションパネルから目録まですべて住職一人でやり遂げているということ。文化財の価値にも精通している。異能の人は、NPOを作って地元で廃校舎を活用した障害者の作業所も経営している。
私がギャラリーを訪問した平日の午後、檀家でもない地域の人が次々と観覧にやってくる。もちろん無料、管理者もいない。多分ここ数年、都会の美術館など行ったこともない人が、わが街のお宝は見届けておこうということなのだろう。「(文化財や活動は)それ自体が独自の価値を持つだけでなく、郷土への誇りや愛着を深め、住民共通のよりどころ」(文化庁「文化を大切にする社会の構築について」)となるのである。専称寺が特別なのではない。地方には、そんな文化体験が眠っている。
もう一つは宮崎県日南市の日南幼稚園。0歳から5歳まで園児60名ほどの小規模園だが、その教育実践は全国から参観があるほど高い次元のものだ。それを支える文化環境として新設されたのが、九州唯一といわれる子ども図書館である(写真)。幼稚園附属であるが地域の親子にも開放され、2階にはくつろげるカフェスペースもある。育児に悩む若い親は多い。ここは、いわば子育て世代のためのレスパイトケア・センターでもあるのだ。(日南幼稚園:https://nichinanyouchien.sakura.ne.jp/)
内装の建材としてふんだんに使用されているのは、ご当地では伝来の飫肥(おび)杉だ。14世紀以来地方の名産として歴史があり、人々の暮らしを象徴する。木材と人の関係を子ども世代へ引き継ごうという文化継承の建築コンセプトは、2年前のウッドデザイン賞を受賞した。
学校法人によくある公費で賄う補助事業ではない。これを幼稚園オーナーが自力で建造したのは、人口減少していく地域の支えとなる文教施設を志したからだろう。地方こそ人が生きる。地方文化、恐るべしなのだ。
今年は、地方消滅に続いて、自治体消滅が話題となった。調査対象の40%を越える744自治体が「消滅可能性自治体」だそうだ。地方は疲弊して、やがて破綻し、解体と合併を繰り返して、衰退していく。地元からは若者や子どもたちの姿が消えていき、地方ごとの特色や魅力、さらに愛着や誇りといったものも忘却されていくのだろう。
お寺も、幼稚園も、その地域に生まれ、長く親しまれてきた文化拠点である。機能や役割もその土地の人々のいのちに関わりながら、根付いてきた。住職も、園長も、世襲職であることが多いが、つまり彼らは何代にも亘り地域とともに生きてきた、また人々の喜怒哀楽と向き合ってきた筋金入りの地方人なのだ。
ローカリティとは、地域色あるいは土地柄を意味する。地元意識や地元愛といってもいい。その土地に生まれ、生きる人々にとって唯一無二の場所や経験を指すのだが、それは地元出身者だけに限定されるものではないはずだ。外部の人々と分かち合われ、他のローカルを励まし支え、この国全体の文化の多様性や生き方の可能性をひらくものでなくてはならない。
文化商品として消費するグローバルと、生きがいや拠り所として創造するローカルの、ここが大きな相違点だと思う。
お寺も、幼稚園も、いうまでもなく地元を生きる人々にとってローカリティの原点となる場所だ。
寺は、生き死にを通して、いのちの尊さを学び、幼稚園では親子や家族が成長の経験を共有できる稀有な場所でもある。そこで育まれる愛着やリスペクト、ネットワークや規範意識はかけがえのない「地域(社会)資本」となるもので、これだけは決して東京に劣るはずがない。
寺も幼稚園も、将来性に乏しいといわれる。いずれ「消滅品種」に挙げられるだろう。しかし、地元や地域に寄せる親愛や共感がある限り、その存在は記憶から消えることはない。そうだとするならば、私のような住職や、園長は、「心の地域資本」として、地方消滅時代に抗い、どう希望や展望を描き出せるのか、それを考え続けていきたいと思う。
嘆いている暇はない。筋金入りの地方人として、できることから始めよう。