
2026/1/20【語りのアーカイブ】應典院の魅力を語るシリーズ④弘田陽介さんインタビュー(後編)
應典院のWEBサイトは現在、事業やイベントの告知のみならず、過去事業の開催報告などのアーカイブ、あそびの精舎としての取り組みや狙いを仏教の教えと共に伝えていくことを主な目的としています。情報の提供だけでなく、読み物としても充実したサイトになっていくことを目指して、應典院に縁のある方々から、これまでの関わりや、應典院という場の魅力や可能性について語って頂くインタビュー記事の連載を行っています。
第4弾は、パドマ幼稚園や総幼研との共同研究に関わり、應典院では「キッズ・ミート・アート[i]」など、こどもに関するプログラムに多数関わられてきた、教育哲学者の弘田陽介さんにお話を伺いました。今回はその後編です。
(インタビュアー/中嶋悠紀子)
弘田 陽介(ひろた ようすけ)
大阪市出身。福山市立大学准教授などを経て、現在、大阪公立大学大学院文学研究科 教授。専攻は教育哲学でドイツの18世紀後半の教育思想の著書・論文がある。身体技法の研究にも取り組み、整体や武術といった古典的技芸についても実践的に学んでいる。
▲前編の記事はコチラ
ー実は應典院は再建当初から、当時スタートしたばかりの臨床哲学カフェの活動を受け入れてきました(「カフェフィロ」20周年の記念イベントが11月16日開催された)この数十年で、アートと同じように哲学に対する捉え方も変わってきていますね。教育哲学者として、弘田さんの目にはどのように映っていますか?
哲学には大きくふたつの流れがあるように思います。ひとつは「対話の哲学」と言って、合理的に議論しながら弁証法的に世界を作っていくもの。もうひとつは対話しえないような「外の世界」や「言語化されていないもの」を志向する哲学です。
後者はかつて宗教などの、近代的合理性のないものを語る世界で探求されてきたものでしたが、近年はそれを哲学としてあえてどう語るのかということが追求されているように思います。
例えば「カフェフィロ」のように、お寺や学校などで、対話の場を変えていくことで、従来語られてきた世界を超えて、考えを深めていこうとする姿勢がある。それはつまり、「こうなればよいコミュニティになりますよ」「こうすれば子どもの発達によいですよ」というようにノウハウとして飼いならすのではなく、外側の世界との共存の技法として哲学やアートがあるんだということを定義し示しているのでしょう。
ー「外側の世界にも目を向ける」ことについて、昔と今を比べて変わってきていると感じることはありますか?
こういうことはお寺の皆さんの方が強く認識されていると思いますが、やはり「お墓はいらない」と考える方や、お葬式をせずに直葬される方が増えてきたことでしょう。昔は弔いのプロセスとして考えられていたことが、今はどんどん合理化され、物質的なものに置き換えられていくようになりました。昔は信仰心の強弱に関わらず、みんながなんとなく、魂は確かに存在するもので、お盆になると仏さんは還ってくるものだと考えていました。ですが今はそんなものは存在しないと、リアリズムで片付けられてしまう。
どう考えるかは自由です。ですが私は、子どもには教育の一環として教える必要があると考えています。大人は知っているから「必要ないもの」と判断ができるかもしれませんが、子どもが何も知らずに育ってしまうと、今の社会の「外の世界」と全く接点を持てなくなってしまいます。例えば、お葬式の場で、「あの世で見てくれている」というようなやりとりがある。我々だって面と向かって教わってはいないのですが、儀式的なものを通じて、人との関わりの中でそれらあの世、「外の世界」に触れてきたわけです。そういう機会のある方が、後の世界が広がるし、従来とは違う考え方を持つきっかけにもなります。
弔いのような「外の世界」との関わりは、面と向かってではなく、人との「すれ違い」の中で学んでいく。今日、直接的に教示するような教育ではない「教えない教育」については様々な誤解も受けやすく、批判されることもありますが、外の世界について考える余地を残しておくために、「すれ違い」での学びやコミュニケーションがあるようにも思います。
ー最近、A Iやテクノロジーが教育現場にも浸透して、外側の未知なる世界に触れる機会が激減している。なんでもA I万能主義に回収されていく感があります。教師や宗教者がそれらとどう対峙すべきか、教育哲学者としてどうお考えですか。
我々は今日、現状の世界にどう適応して生きていくか?という、即ち「社会化」の方向性を強く求められています。しかし教師や宗教者は、それらを促しながらも、外側の世界―つまり地に足をつけて生きる自分を揺さぶるような、現行の世界とは違う基準があることも示していく必要があると思います。それをG.ビースタといった教育哲学者は「主体化」と呼んでいるのですが、「主体化」は、現行社会では意味がないというような状況に対しても目を向け、それについて思考を拓いていくことにも繋がります。ビースタが依拠する哲学者A.リンギスは、「主体化」というのは、今の社会の状況にかかわらず、あなたはもし目の前で死にゆく人がいたとしたら、あなたはどんな言葉をその人に投げかけるかという次元のことだと述べています。もう命が残り少ない人にどんな言葉を投げかけても治癒できるわけがないのだから、何を言っても仕方ないというようにも考えられるでしょう。でも、人は何かその人の人生に報いる言葉をかけざるを得ないというわけです。その時、どんな言葉を発するかという中身の問題ではなく、言葉という生命そのものには無力なものでもって、最期の時を迎える人に対して何か言わざるを得ないという態度こそを、「主体化」の問題として捉えるわけです。
そうであるならば、教師や宗教者は、一方で社会の内側でも生き、そして、社会の外側、「外の世界」にも足を突っ込んでいる人ということになります。「社会化」と「主体化」の二つのレイヤーを合わせ持ちながら、更に言うとお説教や論理でもってではなく、ユーモアやアーティスティックなもので、不意の形やすれ違いのものを生み出していけたらいいですよね。だとすると、真正面ではない形で示している「内と外の往還」こそがアートと呼べるのかもしれません。
ーコロナ禍を経て應典院は2024年、あそびの精舎として再出発しました。キックオフの会にもご登壇いただきましたが、これまでの取り組みと、今後の展望についてお聞かせください。
「キッズ・ミート・アート」は2013年にスタートしてから2019年まで続き、コロナ禍を経て2022年より「キッズ・ミート・アート+(プラス)」として復活しています。今は弘田みな子さん(教育学者)と應典院主査の齋藤(佳津子)さんたちを中心に企画されていますが、例えば今年だと、「おばけの会議」という子どもにフィットする題材の中にもお寺や宗教のことが含められていて、素材として、とても興味深いです。
應典院の未来については、もうすでに実施されていることでもありますが、やはり高齢者と、これからの未来を作る子どもたちがどう関わっていくのかが見られると、とても面白いと思います。子どもも高齢者も、それぞれ生と死の世界に近いところにいる人たちです。生と死の世界は、私たちの暮らす秩序ある社会の「外の世界」で、そういうものと接点を持つ人たちが繋がることのできる機会があるととても面白いだろうなと。
「還暦」という言葉は元々「一巡する」という意味を持ちますが、正にライフサイクルとは円環なのだなと。2019年の「キッズ・ミート・アート」でも、おじいちゃんおばあちゃんと子どもたちが一緒になってお地蔵さんの絵を描いたり作ったり、地獄極楽を考えたりするプログラムを企画しましたが、そういった、孫世代とおじいちゃんおばあちゃん世代が関わる機会が今後もあるとよいなと思います。
[i] 2013年より應典院で開催しているアートフェスティバル。「子どもとおとなが一緒に楽しむ創造の場」をテーマに、お寺と幼稚園を会場にして、芸術家によるパフォーマンスやワークショップを展開。子どもの感性の豊かさと、アートに潜む「インファンス」(「言葉にならないもの」と「子ども性」というふたつの意味を持つ)をつなげる試みを継続して開催してきた。2022年度からは、「研究」のスコープから「実践」を見つめるプログラム「KMA plus」として開催。研究助成を得て、幼児教育実践学会や保育学会等で発表を行っている。
2026年2月より、「おてら哲学フォーラム」を開催します!
新年度の2月より、第2月曜日の18:30〜20:00から6回の開催で、「おてら哲学フォーラム〜主体性を考える 一緒に生きることの哲学から〜」を開催します。モデレーターには大阪公立大学の弘田陽介先生をお迎えし、読書会と対話の時間を皆さんと一緒に共有してまいります。
テキストにはサブティム・インゴルド『教育とはなにか』を題材にして、みなさんと学び合う、気づきと対話の場です。



