イメージ画像

サリュ 第60号2009年3・4月号

目次

巻頭言
レポート「コモンズフェスタ2008」
コラム チャーハン・ラモーンさん(デザイナー・脚本家)
インタビュー 金益見さん(人間文化学者・文化表現アーティスト)
編集後記

巻頭言

物事は相互に依存して存在する

(「ダライラマの般若心経」より)

Report「体」

「まさか」を考える問題集

毎年1回、應典院を舞台に開催されるアートとNPOの総合文化祭、それが「コモンズフェスタ」です。2007年度から開催時期をイベント繁忙期の秋から比較的閑散期にあたる冬に移し、3週間にわたって1つのテーマを深めました。今年度のテーマは「減災の身体性」は、昨年に「協創のかたち」と題して企画を展開した際に、何人かの方から「この時期に行うなら、震災のことを扱ってみては?」というコメントを頂いたことで着想したものです。テーマの副題に「見慣れたものに、未知なるものを再発見する」と掲げたように、もしものために災害を防ぐという「防災」という発想から、いつもの心構えで災いを減らす「減災」の視点を持つことの大切さを学ぶ機会と考えての開催でした。

映画上映、講演、演劇、写真展示、ワークショップ、シンポジウムなど、11に及ぶ企画を貫いたのは、9日から25日の会期の全日程において應典院全館で展示を行っていた「減災のブリコラージュ」でした。この展示は本紙「サリュ」の前号( 59号)にてインタビューを掲載させていただいた美術家の小山田徹さんによって構成いただきました。電気コードに吊り下げられていた46の品々
は、應典院のどこかにあったものでしたが、それらはまさに日用品として、どの家庭にもありそうなものばかりでした。なぜなら、見慣れたものではあるものの、それぞれが吊り下げられた状態で目の前に飛び込んでくるゆえ、非常時にはそこに並んだ展示物をいのちを守る道具としていかに使うかを考える「問題集」のようになるのではないかと意図が埋め込まれていました。

わかりやすさ・心地よさの罠

最終日の1月25日には、應典院本堂ホールにてクロージングトークが催されました。企画者の中からは、「減災のブリコラージュ」の小山田徹さん、「超日常の風景」の企画運営をされた甲斐賢治さん(remo)、「あなたと違う回路でつながってみる」の企画と講師を務めたタミヤリョウコさん、「コーヒー牛乳の止まらない生活」の脚本・演出をされた山内直哉さん( 隕石少年トースター)、「LowPowersの街」作・演出のチャーハン・ラモーンさんに登壇いただきました。また應典院寺町倶楽部からも、アサダワタル築港ARCチーフディレクター、そして山口洋典事務局
長が参加させていただきました。そして1時間程度のセッションを通じて、「被災地に行った経験がないのでリアリティが伝わらなかったのではないか」といった反省点や、「不安なときこそ簡単なルールさえ守れば価値観の異なる身体感覚を「あの日」と「いつか」につなげる〈減災〉への知恵人とも向き合えることを実感した」といった気づきなど、それぞれの企画を振り返っての印象を重ね合わせました。

減災を実現するには、過去のみならず未来の被害についても理解と共感を深める必要があります。そのように「あの日」や「いつか」に思いを馳せることはもちろん、目の前にあるもので「まにあわせ」る発想と技術(いわゆる、ブリコラージュ)が重要となります。しかしそこでの「まにあわせ」とは、単なるその場しのぎという意味ではなく、ちょうど冷蔵庫の中にあるもので作る「ありあわせ」の料理の発想と似ています。すなわち、いくつもの選択肢の中から、果たして何を選び抜くのか、そしてそれをどのように使い切るのか、自らの選択眼を肥やすことが重要になってきます。

ただ、アートやアーティスト、NPOが減災を取り扱うことに注意も必要だと感じました。それぞれの創意工夫によって、あまりに美しく、わかりやすく問題が取り扱われてしまうためです。つぶしのきく専門家の力で災害についての理解を深めるだけでなく、かけがえのない家族との絆を実感する̶。それこそが大事だと確認し、祭を終えました。

小レポート

小学校で開催!
アートワークショップ「にじのたね」

まだ肌寒さが残る2月2日・3日の2日間、大阪・福島区にある鷺洲小学校にて小学1年生およそ80名を対象にしたワークショップを開催しました。講師として絵画やインスタレーション展示を制作している片口直樹さんをお招きし、3ヶ月に渡って小学校の先生方と共に準備を重ね、念願の当日を迎えました。

1日目、1年生の身長を越えるキャンパス(高さ2m×横幅3m)を3クラス分用意し、7色のアクリル絵の具を児童の手だけを使って一生懸命塗り尽くしました。最初は一色だったキャンパスや児童の手が、違う色と混ざり合いだんだん変化していくことに児童たちはおおはしゃぎしていました。

2日目、今度は乾いた上から自分だけの葉っぱの絵をじっくりクレパスで描きます。80個近くのさまざまな形をした葉っぱが描かれていき、最後にキャンパスの表情が変わっていく様子を映像記録した「みんなの絵が出来るまで」をみて振り返ります。

そして仕上げとして片口さんの一筆により、小さい葉っぱの描かれた大きな絵に空と山の輪郭が生まれ、おおきな野山に咲くお花畑の絵が完成しました。

児童の感想文を通して「うめぼしのにおいがした」「チョコレートいろになった」など児童は私たちが普段見落としている繊細な感受性の持ち主であることに気づかされました。学校の日常にアートが起爆剤となり、児童の見方や図工の授業内容などのさまざまな面で「気づき」を残せたように思います。

小レポート

築港ARC 横浜にて関西のアート事情紹介

去る2月11日、横浜で活動をする「ART LAB OVA」と「はまことり」が企画したシンポジウム『アートの現場ー見る、聞く、つくる~関西の現場から』に参加してきました。トーカーとして、中之島や大阪市大病院等でプロジェクトを展開する大阪アーツアポリアの中西美穂さん、新世界を拠点にまちとアートの関係を模索しているブレーカープロジェクトの雨森信さん、そして築港ARCからはディレクターのアサダが登壇しました。

とりわけ築港ARCは関西各所に点在する小さなオルタナティブスペースの動きについてお伝えしました。横浜に比べて関西(とりわけ大阪)は上記のような「点在型」が特徴のため、また関西のアートシーンを包括的に伝えるメディアが不足している等の理由もあってか、とにかく「関東まで情報が行き届いてない」という印象を強く受けました。そういう意味では、築港ARCの「関西アート情報発信」という役割はやはり今後も必要になってくるように改めて感じました。

小レポート

4月に公開!落語でチベット問題に接近

2008年10月より應典院では「落語deチベット」~創作落語プロジェクト実行委員会が催されていま
す。これは2008年3月の騒乱以降に設立された「宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」よりご提案いただいたものです。四代目桂福團治一門の桂七福師匠のご協力を得て、既に4回の会議を通じて、具体的な落語の中身が検討されてきました。

なぜ実行委員会形式で創作落語を練っているかというと、「どうすればチベット問題が伝わるか」を参加者どうしで検討しているためです。チベット問題そのものは、清風中学・高校の副校長でもありチベット密教研究者の平岡宏一先生の出席を通じて学ばせていただいています。3月2日、26日の会議を経て、いよいよ4月に一般公開します。こうご期待!

コラム「趣」

よく悩む友人たちへ脱力系作家からの伝言

「芸術、はたまた美術、そして演劇はどうあるべきか?」などと考えた事もない私にとって、コントといわれるジャンルはただの趣味でしかない。ノンポリを高々と語る訳ではないが、残念な事にそれほど伝えたい言葉もない。

主義や主張がないんだから、舞台上で何を表現するかってったら“愛”しかない。ここでいう“愛”とはレコードコレクターのレコード棚であったり、草野球のユニフォームであったり、登山好きの「やっほー」だったり……。したがって舞台では、「自分でも何がいいのか分からない、理由なんかないけどこんな曖昧なものが私たちは好きです!」「愛しています!」というコントとして芝居が出来上がることとなる。

「モジモジしてないで、せっかく言葉を使った表現なんだから「愛してる」って言ったらいいじゃん! 告白しちゃえよ!」という話になるかもしれない。例えば舞台上で「私は今舞台上で行われている、こういう芝居を愛してます!」という台詞を役者が言ったらどうか。これはこれで「知らんがな!」という突っ込みを入れる事で面白い物になるかもしれない。笑いが起これば万々歳、打ち上げの酒も美味くなり、相乗効果で夫婦間のもめ事もなくなり……。ただ、これはいただけない。

問題なのはこの「知らんがな!」はお客様の心の代弁として成立している事にある。「知らんがな!」には愛がない。レコードコレクターで例えさせて頂くと、自慢のオーディオセットでビル・エヴァンスを聴かせて「ええやろ?」と言いたい訳だ。「ええなぁ」と言ってもらいたい訳だ。私はこれが表現できれば100点だと考えている。

スーザン・ソンタグって人は『反解釈』という本の中で「趣味を軽く扱うな。趣味は選択であり、それはその人の生き方につながる」と書いている。いやはや、偉い人は言うことが違う。さて、趣味とは?

チャーハン・ラモーン(デザイナー・脚本家)
1976年、高知県生まれ。初芝高校デザイン科卒業後、広告デザイン会社を経てフリーのデザイナー、イラストレーターとして関西を中心に活躍。2008年には御堂筋を歩行者天国に変えた「御堂筋kappo」や「10月12日・13日の中之島は大きな帆船」でアートディレクションを担当。「名が体を表す通り、脱力系のコントユニット」として2004年にLow Powersを結成。以来、一年に一度の公演をコンスタントに行っており、その全てで脚本・演出を担当している。

Interview「表」
金 益見さん (人間文化学者・文化表現アーティスト)

情報を与える側の努力次第で、すべての関係は変えられる。出会う人や出来事の多面性こそ大事だと捉えて、「地に着いた美しさ」の発信にこだわっている。

先般、南森町のアートスペース「208」でお話させていただきました。まず、大学3回生の時、電車で「ラブホ特集!」の吊り広告を見て以来続けてきた300軒以上のラブホテルへのフィールドワークや、その間に始めた「まきずし大作戦」と題する在日のインタビュー企画のホームページのことに触
れました。先般博士論文も書き上げたのですが、近頃は長年の夢だった音楽、特に歌も本格的に取り組んでいます。一見、バラバラに思われるのですが、実は「陽の想い」を表現するという点で共通しています。

「まきずし大作戦」や研究を進める中で、弱い立場や少数派、いわゆるマイノリティの議論は、じめっと暗くなることが気になっていました。例えば、在日の問題を取り扱う本の論調は、「苦労して生きていくのはつらいよ」であったり「祖国に帰れ、きらいじゃ」という具合で、これではどちらも負の感情をあおります。そこに疑問を感じ、「ラブコリア!ハグジャパン」のメッセージを込めて始めたのが「まきずし大作戦」です。

研究も同じです。そもそも文春新書の『ラブホテル進化論』は、世間では暗いイメージが持たれているものに、明るい光をあてて書きたいという意志を持って書きました。ラブホテルには、もちろん暗い部分もあります。しかし、どんな規制を受けても成長し進化し続けるものは、ニーズがあるからこそ発展したひとつの文化だと思うのです。

いわゆるキワモノ研究として見られることが多く、親にも恥ずかしくて言えない時代がありました。しかし、冒頭のように、明るく楽しくラブホテルが取り上げられ、若いひとたちはデートの場所として使っているなど、自分との価値観との違和感を抱きました。それ以上に興味を持ったのは、一つの建物が発信している情報が、ここまで伝わり方が違うということでした。

應典院も、お寺でありながらポップに情報発信しているように思います。「軽い」のではなく、「時代に合った」という意味です。先般も、コモンズフェスタで行われたコミュニケーションのワークショップに参加して、人の身体に触れてコミュニケーションをすることはすごい情報量だと思ったと同時に、人と違う回路でつながることが大事だと実感しました。当日は初対面の方を足でマッサージをするということだったのですが、相手が求めていないことをすると、自他共に本質的なところをゆさぶられるのだと思いました。

大学院修了の区切りを迎えた今、私はやっと、やりたいことを少しずつ実現できるようになりました。そして、何かを実現するためには、やりたいことと、やらなければならないこと、やりたくないことを全部端折らずにこなすことが大事なんだと学びました。色んなことをやりすぎてどっちつかずな状態に悩んだこともありましたが、博士論文の副査をお願いした井上章一先生に「研究も音楽もやっていきたい」と言ったところ「歌って踊れる研究者、いいじゃない」と返ってきました。たくさん履いているわらじのいくつかは脱がないといけないかな、と思っていたのものの、井上先生の言葉を聞いてパワーのあるうちは履き続けよう、と思いました。研究、歌、本、それぞれにパワーを全力投入していきたいです。

編集後記〈アトセツ〉

コモンズフェスタのクロージング企画でお世話になった皆さんと、イタリアに行ってきた。龍谷大学の松浦さと子先生の呼びかけで、非営利民間放送によるコミュニケーションについて6名でヒアリング調査をした。訪問先はミラノ、フィレンツェ、ボローニャだった。まちにも個性を感じたが、何より出会った人たちに溢れる魅力を覚えた旅となった。

金益見さんには帰国して一週間も経たないときにインタビューをさせていただいた。特にミラノにて若き不安定労働者たちが、夜な夜な自らの生き様を社会に問う場に衝撃と感動を覚えていたときだった。時に街角にバナー(横断幕)を掲げ、壁にカリグラフィー(落書き)を施し、さらには遊休施設を不法占拠して、自らの文化を発信する。調査に来た我々を、彼らは、仲間として迎え入れ、
その姿勢に圧倒されていた。

そんな状況の私に、金益見さんは「私はギフトの人ですから」と明るく言った。インタビュー後、カレーうどんをすすり、自転車を取り、帰るときまで、明るさは消えなかった。その明るさは、人の
元気さを他の人に伝えることを繰り返しているから、という。伝わることより、まず伝えるという具合だ。

ギフト、とは贈りものだ。理屈っぽいが、通常贈りものは相手から一方的に受ける。ふと、應典院寺町倶楽部の活動も、よりよい社会にとの思いか、社会に贈りものしているのでは、と思った。インタビュー当日の金さんのブログを見て、明るく贈りものを続けよう、と内省した。 (編)

PDFダウンロード

PDF版ダウンロード(PDF形式:1.3MB)