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2026/1/13【住職ブログ】伝統と創造の共振。今、若者に届く「宗教的価値」を問う

あそびの精舎をスタートする際に、「宗教の本質に対する揺り戻し」「宗教的利他主義の可能性」「スピリチュアルな市民との出会いと協働」3つの観点を挙げた。理屈が先にあったのではない。ディープケアラボの30代の面々と出会って、思いが着想になった。以来丸2年が過ぎて、手応えはある。リビングラボとか社会実験とか、新しいフレームで應典院の先行きが照らし出されつつある。必然、集まってくる方々も若者が多く、「若者が集まる應典院」は今も健在である。

しかし、それはお寺なのか、仏教なのかどうか、と問われると、相変わらずわかりにくい。青年信行奉仕団的なわかりやすい絵面がない分、「関係ないことやってはるわ」的な(とりわけインサーダーからの)とらわれ方は今も昔も変わらないのだろう。私も、あそびの精舎を「これからのお寺の姿」と強調するつもりもない。

若手の宗教社会学者・丹羽宣子さんが、「なぜ宗教的価値が届かないのか」という短い提言でこう述べている(新宗教新聞0101)
「若者が宗教的な語りに魅力を感じるとすれば、物語を語る人の魅力と、語りが生活実感に根ざしているかどうか」であり、「祈りや物語、ケアといった宗教的要素を若者の日常に自然に届ける方法を探る必要がある」という。「宗教が持つ普遍的な力を可視化し、押し付けることなく気付ける形で示すことが大切」なのだ。

ほぼ同感なのだが、ここで扱われる宗教的価値とは、何を指すのだろう。宗教的な語り、とは何か。答えは一つではないだろうが、若者に限っていう場合、伝統的な儀礼や制度に直結しない。もっとアクチュアルで、社会的で、より個別的であり、先ほど述べたような広義の宗教的利他主義の実現、あるいはスピリチュアリティの公共化を志向するものではないか。詳しくはふれないが、去年一年の應典院の活動を俯瞰すれば、そういう全体像が浮かび上がってくる。ディープケアラボが「宗教団体」であるはずがないのだが、彼らが生み出す場所や言葉は、私の目には、現代の「宗教的価値」にあふれているように映る(今、D C Lが取り組むプロジェクトは「現代供養考」という)。

むろん「宗教的価値」を、恣意的に扱ってはならない。とりわけ流行に敏感で、うつろいやすい若者にとって、「価値」とは「我欲」と同義であってはならない。しかし、価値化するのは彼らであり、そこに宗教性を見出すのも最終的には彼らの判断に委ねられる。應典院の役割とは、「価値を丁寧に言語化し、時代に合った形で手渡していくこと」(丹羽さん)に尽きるのだろう。最速回答のA Iの時代、そうした価値づけていく長いプロセスに立ち臨むことも、現代の宗教の役割といえるのかもしれない。

今年も元旦、大蓮寺の墓参りの姿は多く、一家同伴されて、若者の参詣も少なくない。
「息子の就職が決まりまして」「娘が結婚しまして」等々、年末年始、檀家からいただく挨拶は次世代(若者)との縁つなぎでもある。いろいろ言われはするが、それも立派な「宗教的価値」だと思う。
長い時間をかけて、形作られてきた伝統の基盤と、未来に向けて共同体の創造を生み出す変化の潮流。その双方が反発するのではなく、互いを補い合いながら、共振する先にこそ、「宗教的価値」という像が描き出されるのだとも思う。
さて、應典院・大蓮寺にとって、どんな一年になるだろうか。

人物(五十音順)

秋田光彦
(浄土宗大蓮寺・應典院住職)