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2017/10/30-11/5 杉本奈月:大塚久美子個展「私の中の命のかたち Shapes of Lives in Myself」レビュー

應典院寺町倶楽部との協働により、モニターレビュアー制度を試験的に導入しています。10月30日(月)から11月5日(日)までの1週間、画家の大塚久美子さん初めての個展「私の中の命のかたち Shapes of Lives in Myself」を開催しました。8点の切り株と2点の樹皮の絵画作品が本堂の床に並べられ、ご本尊が見守る中で、まるで應典院の森を散策しているような空間が立ち現われました。今回は、劇作家・演出家・宣伝美術の杉本奈月さんにレビューを執筆していただきました。


前月の終わりまで空けていた「あの日」を、わたしは埋めないでいるつもりだった。「わたしが」書くべきではないと圏外へ身をおいていたものの、それでも「わたしは」書くべきだと、デッドラインを踏みにじった足で帰阪する。踵を返しても人波に飲まれた夜がある訳ではなく、真昼の月も浮かばれず街は密林となっている。でも、ここはジャングルではない。雨ごいをしても木漏れ日さえ降ってはくれない、上町の台地。南から北へ、水面下では一本の活きた断層が走っている。

未だ、わたしたちは東日本の震災「以後」という文脈でものごとを語りがちであるが、3.11より七年が過ぎようとしている今、もはや「あの日」は世界共通の言語として根差してしまっている。だから、仮に彼女の死が「わたし」を生かしている、「あなた」が生きているのに彼は死んでしまったとしても、現に――あなたとわたしのあいだへ横たわっている倒木――は、わたしたちを真二つにわかちはしない。むしろ、タイムもスケールも短縮、縮小して半永久に保存されてしまう昨日、今日である。遠さなど、あっという間に架橋されてしまうのだし、一人になれない時間があまりにも多過ぎるのだ。浅薄なつながりは空を区画する電線のように細くも強固で、コロニーから遠心分離するにも樹皮をはがすような痛みをともなう。

公園をトレースした赤い年輪にならい、わたしは震災「以前」の――とある身近な自死を、HBの硬くも脆い芯でなぞっていく。なお、わたしは1991年の生まれであるため、東海ではなく23歳まで暮らしていた土地の「もう一つの震災」を覚えている世代である。

(年上の先輩、そして、同い年の「彼女」とは辛うじて、一つの林檎をわけあうように「あの日」を共有できていた。でも、後輩の年齢層が下がっていくにつれ年々、共有できないものが増えていく。それは一時的な話ではなく、ずっと、わたしたちがそうしてきたように、繁殖を続けていっても同じであるのだろう。)

1.
「彼女のような眠りにつけなかった17歳の教室にて。青いセーターの袖口からイヤホンを忍ばせ、手書きで起こしていた譜面の一つに『Shape Of My Heart』という楽曲があった。」/「Heart」が「心臓」か「心」なのかはわからないが「私の中の命のかたち Shapes of Lives in Myself」(大塚久美子 個展)と訳されているのだから、少なくとも「Shape」は「かたち」であり、また「かたち」が「figure」でないことも自明である。先述のとおり、今ここで、わたしが真っ赤なモニターを通し終始一貫して描きたいのは「彼女」の命のかたちである。

2.
「20歳の昼休み。現像液に汚れた白衣を脱ぎ、教授より『Fig.(フィグ)』の有無について問われる南校舎の研究室。スクリーンへ投影されるタンパク質はモノクロに映っていた。」/まだ、夜は始まっていないというのに、薄暗い應典院のロビー。午後一時を過ぎた暖色をも吸光してしまうのか、黒々とたたえた床は十一月の空気の冷たさを青白く反射する。展示のある二階へ至るまで、踏み外さずにのぼった階段の数は十三より多かっただろうか。「あの日」の現場へ先客があったのかは知らない。でも、今ここには私の他に誰もいないようだ。

3.
踊り場へ立つ人影、逆光でも性別は女であり彼女が社会人の装いをしているとわかる。左手のガラス越しに広がる生魂の森、黒いフレームとともに大蓮寺の墓地へ枯れ色の花をそえる。「座ってもらっても大丈夫です。」と聞いたが空耳だったのかも知れない。「どこへ、」や「どこに、」が抜け落ちていたものの約三年間、40kgの値を前後する体重をかけたとしても、きっと若草色の座面も鮮紅色の画面も破れはしないだろう。日に日に赤く染まっていく紅葉の折、紙上へ作られた「血だまり」は祈りをささぐより先に、わたしの声を嗄らしていた。彼女の表象について、今も、わたしはここで、

4.
・細胞を植え継ぐシャーレの寒天培地。
・注射針で薬液を点眼するアルビノの目玉。
・ベニヤ板とともに削いでしまった左指の側面。
・メスを入れた頸動脈から流しへ注ぐラットの全血。

などと書けてしまうのだが、死に体のレトリックは既に海へ溺れているし、悲しみへ融けてしまう氷山の一角で彼女のキャンバスをつらぬけはしない。わたしと彼女の着ていた制服の胸に刻まれていた金星でさえ「作りもの」であったように「あの日」へ同席しなかった以上、何を書いても絵空事にしかならないのだ。夕日の丘に建つ教会で教師はいつも「目を覚ましていなさい。」と口にしていたが、作家の性として惰眠よりも日々の風景からメタファーを貪るのが常である。震源からは遠く、微かな振動に揺り起こされた「あの日」の朝だけが、わたしのリアルだった。

七日間、会場を出入りした人々の行き来に舞っていた土埃へ、西日の輪郭が表われる。もう、盆へはかえらない――手に塩をかけても、すくえなかった水量をおしはかる現在――先約の十四時を回ろうとしている。

 

〇レビュアープロフィール
杉本奈月(すぎもとなつき)
劇作家、演出家、宣伝美術。N₂(エヌツー)代表。1991年、山口県生まれ。京都薬科大学薬学部薬学科細胞生物学分野藤室研究室中退。第15回AAF戯曲賞最終候補、「大賞の次点である」(地点 三浦基)と評される。ウイングカップ6最優秀賞。2015年、上演のたびに更新される創作と上演『居坐りのひ』への従事を終え、2016年、書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み「Tab.(タブ)」、処女戯曲の翻訳と複製「Fig.(フィグ)」を始動。2017年、買って読む「紙の節約、電子の振る舞い」としてテキストアーカイブの販売を開始。口にされなかった言葉が日に見初められるべく、月並みな表現で現代に遷ろう人々の悲しみを照射する。詩として縦横に並べ立てられる台詞の数々は、オルタナティブな文学であり数式のようであると評される。外部活動は、缶の階、dracomにて演出助手、百花繚乱文芸マガジン「ガーデン・パーティ」(LittleSophy 落雅季子 責任編集)にて京都日記『遠心、日々の背理』エッセイ連載など。

 

〇レビュアー公演情報
■ 劇作・演出
|| 横浜 || 2018年2月15日(木)~16日(金) The CAVE
N₂ / TPAMフリンジ参加作品
書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み
Tab.3『雲路と氷床』- Lightning talk is working in silence.

|| 京都 || 2018年2月22日(木)~25日(日) 京都芸術センター 講堂
N₂ / KAC TRIAL PROJECT Co-program カテゴリーD
書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み / 処女戯曲の翻訳と複製
Tab.3『雲路と氷床』- Lightning talk is working in silence. / Fig.1

http://gekidann2.blogspot.jp/

■ エッセイ連載
2017年4月~12月 毎月25日発行
百花繚乱文芸マガジン「ガーデン・パーティ」
責任編集 = 落雅季子(LittleSophy)

京都日記『遠心、日々の背理』(全六回)

購読料金|月額324円
購読申込|http://www.mag2.com/m/0001678567.html