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2017/12/24-25 陸奥賢:24時間トーク「如是我聞vol.6」を開催しました。

コモンズフェスタ2018が開催中の應典院ですが、12月24・25日にかけて行われた24時間トーク「如是我聞vol.6」について、企画主催者のおひとりである陸奥賢さん(観光家/コモンズデザイナー/社会実験者)から、この6年間を振り返るかたちで開催報告をご寄稿いただきました。読売教育賞を受賞した「まわしよみ新聞」をはじめとする陸奥さんのワークショップは、1月15~17日にかけて應典院にて6つのプログラムを開催予定、ぜひご注目ください(詳細はこちら)。


24時間トーク「如是我聞」とはなにか?

應典院の秋田光軌主幹からコモンズフェスタ企画の「如是我聞」について、なにかコラムを書いてください…というご依頼があり、少し言葉にしてみます。

「如是我聞」は24時間トークイベントです。24時間、不眠不休で、観光家の陸奥賢と劇作家の岸井大輔の2人がホストとなって場を開き、多様なゲストや参加者と、取り留めのない四方山話をするというだけの企画です。コモンズフェスタ2013から実施され、今年のコモンズフェスタ2018で6回目を数えました。

6年前は「24時間トークイベント」なんて無理無茶無謀な企画をする人などほとんどいなかったのですが、最近は似たような企画がでてきているようです。しかし24時間トークといってもホストは交代制で休憩したりしていて、如是我聞のように「ホスト(岸井大輔、陸奥賢)が不眠不休で話をする」というのはまだまだ稀有なようです。またトークをする場所として大抵はカフェやシェアハウスといったコミュニティスペースや公共施設などが多いようですが、如是我聞は「寺院」でやっているという点でも特殊で、「寺院でやっている不眠不休の24時間トークイベント」としては、おそらく日本唯一であり、非常に稀有な企画といえるでしょう。

なぜこのような場を開こうと思ったのか?いくつか理由はあります。ひとつは、世間にあるトークイベントの大部分は、所要時間が1時間、2時間、3時間といったものが多く、まったく充分に話が尽くせていないという不満が、ぼくの中にあったことです。過去、いろんなトークイベントに参加してきましたが(時には自分が登壇者になったこともようさんあります)、自己紹介をして、ひとつ、ふたつほどテーマについての話をすると、もう時間切れになってしまう。話がようやくテーマの深淵なところに差し迫るとなると司会者から「残念ながら時間切れで終了です!」と打ち切られる。

大体、物事を、どんなことでも、真剣に、まじめに、ちゃんと話をしようと思うと、2時間、3時間なんて、到底、短すぎます。6時間、8時間でも足りない気がする。だから、いっそ24時間ぐらい徹底的に話をし続けてはどうか…というのが「如是我聞」という企画の発想に至ったわけです。

いまにして思えば、こうした「長時間の対話」を企画した背景には、昔の西日本の集落(東日本の集落では家父長制が強くて、このような合議制のスタイルはあまりなかったようです)でよく開かれていたという「寄りあい」への憧れというのがあったかも知れません。この「寄りあい」は、宮本常一の『失われた日本人』に記載されていることでも有名です。対馬の事例ですが、ある日、宮本常一が「村の古文書を借りたい」と提案すると、「寄りあい」でどうするか話し合われるという。いざ寄りあいが始まったが、しかし、なかなか終わらない。返事がもらえない。しびれを切らして観に行ってみると、みんなが弁当を持参で集まっていて、いろんな話をしている。面白いのが、その古文書に関する話だけではなくて、いろんな話題や問題について、雑談のように、とりとめもなく、延々と話し合われている。銘々が昔話や、思い出話や、世間話や、いろんな話をする。時には途中離脱して家に戻ったり、また途中参加したりしてもよい。しかし、とにかく、時間を決めずに、朝も夕も夜もなく、だらだらと話をしていると、なぜか、どんなに難しい問題でも、3日もあれば、満場一致になって、なんとなくかたがついたというんですが、これが「寄りあい」です。

いまの世の中、なにか物事を決めるさいは、みんなで話をするんですが、時間がくると、最終的には「多数決」を取って決着をつけようとします。しかし、寄りあいには、この「多数決」がありません。満場一致になるまで、とにかく、何時間でも、徹底して話をする。多数決というのは、結局、「弱者切り捨て」ですから。学校でも会社でも国会でも、一応は話し合いの審議をしますが、最終的には「多数決」という「数の暴力」によって、少数者の意見を封じ込めます。これは、どうも真の民主主義とはいえない。ほんまもんの民主主義というのは、こういう「寄りあい」的な対話の場から生まれてくるように感じていて、ぼくは、こういう場をやってみたかった。24時間トークの如是我聞は、そのための社会実験であり、「寄りあい」の3日間には及びませんが、そのような「寄りあい」的なものを再現したいという願望がありました。

実際に如是我聞をやってみて、それで自分の抱えている問題や「問い」が解決するか?というと、そんなことはほぼないんですが、しかし、24時間もいろんな話をしていると、その抱えている問題や「問い」に関しても、ヒントのようなものがいくつも生まれてきます。例えば、ぼくの「問い」に、誰かの「問い」が微妙に重なっていたり、反転していたりして、より高次元の「問い」が生まれ、そうすることで、元々、自分の抱えていた「問い」の小ささに気づく…といった感じです。決して問題解決はしませんが、「問い」が更新されるということは如是我聞ではよくあります。

「寄りあい的なものの再現」というのが、如是我聞の狙いのひとつでしたが、もうひとつ、如是我聞でやってみたかったことがあって、それは「聞く」ということでした。如是我聞は、トークイベントですから話をするのは当然なのですが、ホストであるぼくは、基本的には「聞く」という立場で、毎回、場に臨んでいます。それも「聴く」ではなくて「聞く」です。

「聴く」と「聞く」ではなにが違うのか?「聴」という漢字は、右に「心」が入っていますが、これは意識して、集中して、話を聴くという態度です。それに対して「聞」は、「門」という漢字が入っていますが、これは「門の向こうから聞こえてくる」という言葉を意味します。意識しなくても、心を閉ざしていても、なにか、言葉の方から、自分の中に入ってくる。これが「聞く」です。「聴」は「能動的に聴くもの」ですが、「聞」は「受動的に聞こえてくる」といえばわかりやすいかも知れません。如是我聞は、この「聞こえてくる」を体感する場にしたかった。

実際に24時間も不眠不休で話をしていると、当然、眠気がやってくるし、意識が朦朧としてくるし、自分がなにを喋っているのかわからなくなる瞬間はあるし、なにか「頭の中に靄がかかっているけれども、どこかが開いているような、不思議な覚醒状態」に自然となります。そういう時に、ふと、誰かの言葉が、いつのまにか、自分の中にするっと入ってくるわけです。それもその時にはまったく知覚できずで、数日後になにかの拍子に自分の口からぽろっと、その言葉が出てきたりして、その時に、ようやく「あ。これ、如是我聞のときにいうてた言葉や」と認知される…といった次第です。

しかし、こうした「聞こえてくる言葉」こそが、自分の新しい世界観の発見に繋がります。自分で意識して「聴こう」として会得した言葉(聴きたい言葉)は、結局、自分という世界観の範囲を超えないんです。自分の世界の中にない言葉は、どこかから「聞こえてくる言葉」で、それが如是我聞には満ち溢れています。

最後に、如是我聞は「寺院でやる」というのが企画の肝であり、核としてあります。実は、24時間トークは、当初は、クリスマスの日にラブホテルでやるという企画書でした。そのときの企画タイトルは「初めに言葉ありき」。旧約聖書の有名な言葉を捩(もじ)っていました。

というのも、クリスマスというと本来は聖夜ですが、日本ではなぜかカップルがラブホテルに通う「性夜」になってしまっていて、なんでこんなことになってしまっているのか?日本人の西欧文化受容は、どうして毎回、こういう妙な変容を遂げるのか?日本人の宗教観とはなにか?といったことを考えてみたいという思いが当初はありました。また年がら年中、喋りはったおしている岸井大輔と陸奥賢ですが、この二人がラブホテルで24時間も喋れば、なにか新しい概念や幻想や世界観や思想や哲学や妄想が劇的に誕生して、まさしく「初めに言葉ありき」な状況が生まれてくるのでは…?と期待したわけです。おっさんふたりでクリスマスにラブホテルで24時間いるとか、いろんな意味で痛すぎるんですが…。

ところが、この意味不明なトンデモ企画を秋田光彦住職に話をすると、「24時間トーク?おもろい!それ、應典院でやってよ!」と軽い感じで誘われて、そうして企画の場所が、ラブホテルから寺院へと変わり、企画タイトルも「初めに言葉ありき」(秋田住職から「お寺でやるのでこのタイトルはちょっと…」といわれました。そりゃそうですな)から「如是我聞」へと変わりました。

この企画タイトルが「初めに言葉ありき」から「如是我聞」へと変わったのは、これはじつは24時間トークの中身、性格、ベクトルが、180度するほどの劇的な転換になったと思っています。「初めに言葉ありき」は、どこか発話することに重きが起かれていて、能動的なトークの場です。しかし「如是我聞」は、そうではなくて発話することよりも「聞く」ということに重きが置かれて、受動的なトークの場にならざるを得ない。これはもしかしたらキリスト教の性格と、仏教の性格の相違みたいなものが発露しているのかも知れません。「語る宗教」と「聞く宗教」のスタンス。めちゃくちゃ乱暴なレッテル張りで、いろんな宗教関係者から怒られそうですが…。

しかし、どんな「場」で対話をするのか?というのは、対話の質を変えます。24時間トークが、應典院という寺院でやられているということ。それは、有形無形に、その場に、トークに、参加者に、有形無形に影響していることでしょう。また聞いているのは、ぼくらだけではなくて、十一面観音さんや、阿弥陀如来さんも聞いてはる。時々、そんなことを思ったりもします。

如是我聞は、そんな企画です。来年も應典院でやりたいと思っています。じつは應典院以外の、どこかの寺院でもやってみたいとも。こういう対話のデザインを、場のデザインを、日本全国の寺院で流行らせたい。ご興味ある仏教関係者のみなさん、一度、陸奥までご連絡ください(笑)

また如是我聞は「いつでも、どこでも、だれでもできるコモンズ・デザイン」でオープンソースです。我こそは!という方はぜひとも企画してみてください。ルールは簡単。①ホストは24時間不眠不休であること。②なにを喋ってもいい。途中離脱・途中参加OK。③寺院であること。以上の3つです。

 

人物(五十音順)

岸井大輔
(劇作家)
陸奥賢
(観光家/コモンズ・デザイナー)