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2018/2/28 インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」第1回:松本紹圭(後編)

應典院ホームページ上の新しい取り組みとして、インタビュー連載「現代の仏教者に聞く」をスタートします。本連載は、さまざまにご活躍されている仏教者の方々に、社会や仏教の未来に対するビジョンを伺うもの。第1回には、「未来の住職塾」をはじめ應典院とも長年ご縁の深い松本紹圭さん(浄土真宗本願寺派光明寺僧侶、一般社団法人お寺の未来代表理事)にご登場いただき、2月21日に公開した前編では「仏教×SDGs」や「トランジションの技法としての仏教」という新しい切り口をご提示いただきました。今回の後編でも、さらに仏教の本質を問いなおしながら、「ひじり」としての生を提案してくださっています(聞き手:秋田光軌)。


仏教とは何か、出家とは何か

――人生の色んな節目があることは皆分かっているんだけど、そこで起きているトランジションに必ずしも目を向けていないというか、何も変わっていないかのように変化を否定してしまうということでしょうか。たとえば会社を定年退職したけど、その時の肩書きやアイデンティティを捨てられない、とか。仏教はそういった手放せない思いを解きほぐして、トランジションの方に目を向けていく…。

松本 仏教を機能的に見ると、そういうことだと思うんです。私はどこまで行っても、「今ここ」にいる私から離れることはできないし、「今ここ」をこうして生きていることに良いも悪いもありません。しかし、頭でっかちに空想の世界に没入していくと、これは良いか悪いかというジャッジメントが生まれてきて、「私の人生は成功している」とか「自分にとって得か損か」とか、そんなことばかり考えてしまうわけです。ジャッジメントしているっていうことは、「こうあるべき」という何かが想定されて、その基準から成功や失敗を判断している。それは「今ここ」にある物事を正しく見ていない状態である、と仏教では言うわけですね。

しかし、教育のあり方や社会の仕組みのせいで、他人の物差し、社会の物差しが内面化しすぎて、それでしか物事を見られなくなっている人が非常に多いと感じます。他人の物差しを内面化したひとり相撲を、延々と続けてしまっている。苦しいと感じることすらなく、上滑りの人生を送っていく人がたくさんいるんだろうと思うんですね。成功体験に満足して「完璧な人生だった」と振り返るような発想自体が大きな失敗ではないかと。たまたま思い通りにしたいことが叶ったからといって、それがほんとうに豊かな人生であるかどうかはわからない。人生の最も面白いところを経験せず終わっている可能性もあります。

多くの人生はそんなに全部思い通りにうまくいくわけではない。歳を取れば取るほど苦しくなることも大きいかもしれない。でも、だからこそ、豊かなんじゃないか。その苦しさにこそ気づきのきっかけがあるわけです。仏教が価値を発揮しうるのは、人生の色んな変化に際して生じる手放せない苦しい思いが、私たちに何を教えてくれているのかを伝えられるところにある。逃げ出したくなるような苦しい経験が、本当は大きな僥倖であるのだと、そんな風に人生を、その後の生き方を転換していく技術だと思っています。

それはこれまでもずっと仏教がやってきたことなんですけど、じゃあ現代では何が今までとちがうかというと、まず社会の変化が速いということ。昔だったら先人の知恵に学ぶ、背中に学ぶということができたと思うんですが、今はそれがすごく難しい時代です。生活のあり方とか社会の仕組みに大きな変化が生じている。さらに、そこにきて寿命も伸びています。シルバー世代に入っても、第二の後半生を生きるということになっていくと、手放せない思いや経験が増えていく。そうした状況の変化に伴って、これまで以上に人間の成熟が求められる時代に、仏教は大きく貢献しうるんじゃないか。

――ただ同時に、手放すことの意味が非常に伝わりにくい時代かもしれません。手放すものなんて何もないというか、アンチエイジングであったり、上昇志向のメッセージしか目に入らなくなっているように感じます。仏教がもっと外に飛び出して、異分野と交わりながら社会に発信していくしかないような。

松本 さっきから仏教とは何かっていう話をしていますけど、私は実はあまり仏教にこだわる必要もないと思っています。ないがしろにしているわけじゃないですが、「仏教」って言った瞬間に宗教にカテゴライズされちゃいますし、手垢のついた古いものとしてイメージされがちです。そうすると、仏教のポテンシャルを矮小化してしまうと思うんです。

佐々木閑さんが『出家とはなにか』でこんなことを書かれています。出家とは、一般に思われているような、他人との関係性を拒否する世捨て人になることとは本質的に異なる、と。そうではなく、俗世間の価値観を拒否した人たちが独自のグループをつくり、しかもなお俗世間と密接な関係を保ちながら生きていくことが出家なんですね。既存の社会から飛び出して僧侶だけの閉じた世界で暮らすということじゃなくて、社会と緊密な関係を保ちながら、しかもなお社会の外側の価値をもってしてインパクトを与える。それが出家者の役割だと思うんです。もしお坊さんがそういう存在であることができれば、特にこれからものすごい価値を発揮しうるはずなのですが、じゃあ現実はどうかというと、既存の社会から飛び出したお坊さんが、既存とはまた別の社会に閉じて、そこで第二の世俗を送っている。それでは第二の世俗における在家になっただけで、意味がありません。お坊さんの再出家が必要なんじゃないかと思います。

で、僕はどうするかという話なんですけど、これまで7年、「未来の住職塾」をやってきました。やっていて気がついたのは、自分はお寺の住職に向いてないし、なれそうにもないということです(笑)。寺院に定住せずに各地を遊行した聖(ひじり)と呼ばれるお坊さんが中世などにいましたが、これからは私もいわば「ひじり系お坊さん」として、いろんなお寺の軒先をお借りしながら、活動していきたいなと。トランジションの切り口で仏教を語っていこうと思ったら、自分が一番率先して手放していかないといけませんしね。何かにしがみついている限り、お坊さんによる第二の世俗に閉じていくことを脱することはできないし、お坊さんの価値も活かされない。

――なるほど、出家者とお坊さんは違う概念なのだと受け止めました。俗世間とは別の価値を生きる出家者は、たまたまお坊さんである場合もあるし、お坊さんではない一般人である場合もたくさんある。そして、お坊さんが必ずしも出家者であるとは限らない。

松本 というか、お坊さんイコール住職ではなくて、自分のお寺を持って定住せずに遊行する「不住職」としてのお坊さんのあり方があってもいいだろうと。そういうお坊さんにとって、いわゆる僧籍を持っているかどうかは、あまり関係ないのかもしれない。お坊さんの資格を持っていなくても、お坊さん以上に出家的価値観で生きている人は、世の中にたくさんいますしね。そういう人も含めて、世の中に「ひじり」が増えればいいなって思います。

「ひじり」の軒先機能をつくる

松本 最後に、最近やっていることについて話をします。仏教は学と行を兼ね備えたトランジションの体系である、と言いましたけど、行の部分でこれから重視していきたいのは掃除です。掃除は、日本仏教の唯一無二のプラクティスですね。「Temple Morning」という名前で、東京の光明寺で月3回くらいのペースで朝掃除の会をはじめています。Twitterで呼びかけて、朝7時半に集合、15分掃除、15分お経を読んでから、30分はお寺のテラスや客間でお茶を飲みながらみんなで話すということをやっています。お寺の掃除は、みんなそれぞれ自分なりに意味を見出して取り組めるのがいいですね。エクササイズ的に掃除する人、瞑想的に掃除する人、無心に掃除する人、亡き人のことを想って掃除する人、願いを胸に掃除する人。感想は「心磨きができました」「無心になれました」「きれいになって気持ちいいですね」とみんなさまざま。会が終了してもなかなか会社に行かなくて、「あれ、もう9時ですけど…?」なんてこともあります(笑)。

「未来の住職塾」の大きなイノベーションは、お寺づくりというテーマを立ち上げたことで、宗派を超えて志のあるお寺が一緒に学べる「学」のコミュニティができたことです。私はそれに加えて、宗派を超えて一緒にできる仏教的「行」もあったらいいなとずっと思っていました。でも、共通の実践方法を見つけるのがなかなか難しい。念仏・座禅・題目と、各宗派でバラバラに分かれてしまいますからね。うーんと考えていたところに、そうだ掃除があるじゃないかと。しかも、海外の仏教はそんなに掃除に力を入れてないですよね。仏教の国際会議などでは「あぁ、日本のお坊さんですか…」って、日本のお坊さんも一応仲間に入れてあげましょうみたいな感じで、世俗化の進んだ日本仏教の価値があまり評価されませんが、そんな日本のお寺が世界に誇れるのは、掃除が行き届いていることです。掃除こそ手放す実践でもあって、カウンセラーが鬱に苦しむ人に「まず掃除しましょう」とおすすめするとも聞きますし、実際に効果があるんだと思うんですね。というわけで、2018年は日本のお寺に掃除の嵐を巻き起こしていきたい。

お寺って、どんなに「どうぞ自由にお参りください」って伝えても、檀家でもない人からしたら、「何かちょっとくらい(お金を)包まないと居心地悪い」みたいになりがちです。でも、掃除をすれば「自分はこのお寺に奉仕している」という実感が持てるから、居心地悪くならない。掃除して貢献していますからね。出番があるから居場所ができるんです。きれいにすれば、お寺に愛着も持ってもらえるし、だんだん「自分のお寺」になっていくプロセスとも言えます。作務衣のお坊さんと一緒に掃除するだけで、価値があるんです。トランジションを促すお寺やお坊さんに親しんでもらうための、とても良い実践だと思うし、お寺の掃除を通して色んな人の人生が変わっていくのを目の当たりにすれば、お坊さんにもひとつの自信になるのかなと。

その流れでもうひとつ考えていることもあります。掃除の常連さんの中に、フリーランスで自宅で仕事をされている方がいます。わざわざ朝に電車に乗ってやってきて、お寺の掃除をして、また自宅に帰って仕事をすると。その人の訴えは、「お寺に来てスッキリしたし、良い話もできた。でも自宅に帰ると気持ちが下がってしまうから、この勢いのままで仕事したい」ということでした。それならば、「お寺コワーキングスペース」をやったらいいじゃないかと。私は、お寺にとって大切なのは、これからの新しい生き方を提案することだと思います。今はフリーランスの人も多いし、早起きして午前中で仕事を終わらせて、充実した一日を過ごせるよう働き方改革をしていきましょうよと。そういう場をつくっていくことによって、お寺が「ひじり」のたまり場になっていけばいいなと考えています。

――様々に興味深いお話をありがとうございました。最後に、今後の應典院に期待することを教えてください。

松本 應典院を「ひじり」たちの聖地にしてください。日本全国から「ひじり」が集まってくる聖地がつくれたら、そこからイノベーションが生まれますよ。というわけで、應典院を「ひじり」にどんどん開放しましょう。まずは掃除の会からやってみませんか? どんな人が集まってくるのか楽しみです。

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松本紹圭
(浄土真宗本願寺派光明寺僧侶、一般社団法人お寺の未来代表理事)