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2018/2/23-25 横林大々:坂本企画「寝室百景」レビュー

應典院寺町倶楽部共催事業として、坂本企画「寝室百景」が2月23日(金)から25日(日)まで、應典院本堂で上演されました。モニターレビュアーでもある坂本さんによる、一日限りの世界を生きる人々の日常を三編で描いた作品。連日盛況・好評が続きました。今回は作家の横林大々さんにレビューを執筆していただきました。


「あの闇の向こう」 横林大々

観劇をする前の、あの高揚感を、どう説明しようか考えあぐねている。
音が大きくなり、光が消え、眼前に広がる闇。私は、この闇を人生で何度経験しただろう。
これから始まる物語に思いを重ねるあの瞬間、間違いなく私は誰よりも幸福感に満ちているのだ。
あの闇を現実世界から乖離する瞬間だと私はとらえていて、劇場において現実と物語をつなぐのは、あの闇だけだと毎度のように思い更けてしまう。(しかし、闇がピークで、あとは指の爪ばかりみてるような観劇体験も正直たくさんあるので気をつけよう)
だが、先日は、その高揚感の中に不純な何かが入り交じってしまっていた。

当レビューを何本か書くにあたり、私の中で一つの問題が、くっきりと顕在化し始めた。
それは『物語』と『現実』についての関係性。『物語』が嘘であり続ける限り、どれだけの素晴らしい内容であっても『現実』の前にはかなわないのでは無いか、という問題だ。これは作家を志す私にとって、ひどく心を重くするのである。
オリンピックの感動は「そだねー」が現実であるから心を動かす。物語の強度が高くても、決してそれは現実に干渉しない。作られた「そだねー」は「そうじゃない」のだ。

ありがたいことに應典院のレビューでは演劇以外の内容を書かせて頂いたり、他のレビュアーの素晴らしい書記を覗いたりすることが出来る。その中で、『別れ』ことさら『死』という現実の前に物語はどう立ち向かっていけばよいのかを考えてしまっている自分がいるのだ。
あの高揚感のある闇が、『現実』と『虚構』との距離を加速させる装置なのであるとすれば、その作家を志す人間として隔たりとどう向き合えばよいのだろうか。
作りものが現実に干渉するほどのエンターテイメントになりえるのだろうか。
私は現実を創作でブチ倒したいのに。
これが、先の不純物の正体。

先週は劇を二作観た。
ひとつは、かつて横林が懇意にさせて貰っていた劇的☆ジャンク堂さんの復活公演『すいかのもよう』。
そして、もうひとつは今回レビューを書く坂本企画さんの『寝室百景』。
ふたつの作品は、劇空間の色も、物語の大枠も、大きく異なるのだが、私は、この二作に『ある』共通項を見つけた。
それは大病を患った愛する人との向き合い方について、である。

『すいかのもよう』は基本コメディで、はちゃめちゃで、ハイパー面白作品だったのだが、その中に大病を患った女性と、彼女を手助けする男性の別れが描かれていた。女性の病は、より深刻化してゆき、ついには自らの力で立てなくなる、と。
そこで女性は、男性との別れを選択する。新しい人生を歩んでほしいと。
物語の中では、二人のその後は描かれていない。ひょっとすれば、男性はそんな彼女の言葉をはねのけて、それでも女性に手をさしのべ続けるのかもしれないし、あるいは本当に別の幸せを見つけるのかもしれない。
物語として単純に気持ちの良いのは前者だろうか。ヒーローぜんとした彼に物語の受け手はカタルシスを感じるに違いない。
しかし。その選択の向こう側を、もし現実に迫られたとすれば。
そんな展開が『寝室百景』の『王国編』では観られたのだ。

寝室百景は病気ではなく現象だ、と劇中の医師は話す。
眠りにつくたびに、記憶や性格が変わる現象。そんな共通の現象が存在する世界観の中で、今回の寝室百景は『王国編』と『牢獄編』の異なる二作品(ないし三作品)が上演された。私は、その中でも『王国編』のみを観劇したので、その感想だけを綴って行きたい。
この物語に役名はない。
「男」「女」など、限りなくそぎ落とされた人物たちが物語を繰り広げる。
そのプレーンさは星新一のショートショートを読んでいるようである。
『寝室百景』という設定もどこかSFのような世界観であるが、役者の熱量が現実感と切実感を帯びさせる。
(プレーンであるために味付けの薄さを感じるシーンも少なくなかったが、それは私がエンタメ大好きジャンキー舌野郎だからだろう)
『王国編』で描かれたのは、突然愛する男性が寝室百景に取り憑かれた女性の情景だ。とある医者が開いた建物の中には、そのような寝室百景の発症者ばかりが集まり、コミュニティが作られていた。彼女の中では愛している男性の姿でも、彼は一眠りする度に新たな人格で新たな記憶の中、それこそ虚言のようにあることないことを口から放つ。その姿に彼女は絶望を味わう。

現実と物語が一番大きく違う点は、物語にはエンドクレジット「めでたしめでたし」が存在することだ。
どれだけの美しい物語も、残酷な結末も、終わってしまえばその先が書かれることは無い。この『王国編』の物語も、彼女が挫折を乗り越える展開を迎える。その前向きな姿は二人が幸せそうに見えて、この地点で物語を終わらせればハッピーエンドといえるだろう。
しかし、後味の良さに関わらず、人生は続く。この先もずっと寝室百景と連れ添って生きていくと選択した彼女の、その先。想像を絶する苦難や試練が待ち受けているであろう、その先。
これが、寝室百景という架空の現象、ここでは作中とは異なりあえて病気と書かせて貰おう、であるからこそ表現がマイルドになっているが、例えばこれが「介護」「意識不明」などという言葉に置き換えてみればどうだろうか。
その現実感に「永遠をともにする」などというエンターテイメントは存在しないのではないか。

物語は、男の親族が彼を引き取ることで更に転がる。
彼女は「この先も彼と共に生きるか」「親族に彼を任せて新たな人生を歩むか」のどちらかを迫られるのだ。
私は作家志望の癖なのか、彼女が「どちらを選ぶだろうか」と考えていた。
どちらを選べばより物語として成立するだろう。ハッピーエンドが好きな私としてはやはり…
などと、悩んで。
この考え方は「ものを作る自分としての考え」であって、「現実に生きる私自身の考え」ではないな、と気づいた。

彼女は別れを選ぶ。
現実を選択する。
病気の恋人を、あえて手放す。
観劇後、私は胸を打たれた。
この物語は、現実からかけ離れていながら、とても深く現実を直視して描いているな、と。幸せの向こう側にも幸せが存在するとは限らないのだ。
私は、坂本さんの別れに対する真摯な創作に、思わず敬意を払ってしまった。
あの高揚感の中に潜んだ不純物を、坂本さんは作家として真っ正面から挑んでいた。
客席で横林は唸る。
そうか、『現実』と『創作』を比べてかなわないなどというのではなく、『現実』の文脈を『創造』で再構築することも出来るのだと。何を私はスーパーサイヤ人のように『物語』で『現実』を倒すことばかり考えていたのだろう、と。
おっすオラひとりよがり、いっちょやってみっか、である。

ひょっとすれば『牢獄編』も観ていれば、思いもよらないピースが繋がりあい、また異なる感情がわき上がる可能性もある。それらはまた、どちらも観劇されたレビュアーの方の記事を楽しみにしいておこう。
(劇団側が、二作品準備しているのであれば両方観るに超したことはないのである。その方が奥行きが広がり面白さに多様性が出てくるのだから。)
「物語」と「現実」の親和性は、物語が現実という辛さを柔らかくして、あえて問題を提起する役割もあるのだと学んだ。
現実を忘れさせる物語だけが物語だけではない。
現実と向き合うことが出来るきっかけを作り出すのもまた、物語であるのだなあ、と。

観劇をする前の、あの高揚感。
音が大きくなり、光が消え、眼前に広がる闇。私は、この闇を人生の中で何度経験しただろう。
これから始まる物語に思いを重ねるあの瞬間、間違いなく私は誰よりも幸福感に満ちている。
劇場において現実と物語をつなぐのは、あの闇の瞬間だけなのだ。

そして劇的☆ジャンク堂のような現実を忘れさせる楽しい物語も、坂本企画のような現実を突きつけてくる物語も、どちらもその闇があるから、より濃く輝くのだろうな、と、そんなことを思った。

いやー芝居って、本当に良いもんですね。
(©水野晴郎)

 

〇レビュアープロフィール

横林大々(よこばやし だいだい)

2分30秒で綴られるリレー形式のライティング・ノベル・イベント『即興小説バトル』の主催者。また、Web上の小説投稿サイト『カクヨム』を拠点に商業作家を目指す。1990年生まれ。ふたご座。O型。劇作活動を経て現在に至る。好きな映画は『トイ・ストーリー』全作『モンスターズ・インク』『ラ・ラ・ランド』『ジョゼと虎と魚たち』『学校の怪談2』。好きな曲は星野源『茶碗』清竜人25『Will You Marry Me?』ROSSO『シャロン』。好きなラジオ番組は『アルコ&ピースのオールナイトニッポン』。作るのも、見聞きするのも、楽しいものが好き。自分の作品によって誰かが幸せになってくれれば、と常日ごろ考えている。

人物(五十音順)

横林大々
(作家・『即興小説バトル』主宰)