2018/3/2 杉本奈月:浄土宗大蓮寺塔頭 應典院再建20周年記念シンポジウム レビュー
去る3月2日(金)、浄土宗應典院再建20周年記念シンポジウムを本堂にて開催し、約100名の参加者で満堂となりました。日本を代表する宗教学者である島薗進さん(上智大学グリーフケア研究所所長)、スピリチュアルケアに従事してきた浄土宗僧侶の大河内大博さん(願生寺住職)、また当シンポジウムのコーディネーターも兼任された大谷栄一さん(佛教大学教授)を登壇者にお迎えして、この20年間「葬式をしない寺」として應典院が宗教界に果たしてきた役割を振り返りました。今回は劇作家、演出家、宣伝美術、N₂(エヌツー)代表の杉本奈月さんにレビューを執筆していただきました。
あたらしい白衣に袖をとおせなかった春から一年と十一ヶ月。ヒトのものではない細胞の死に際を看とれないまま母校を去った四年次のおわり、あと三十日もしないうちに人生で二年の空白を過ごしたことになる。ミナミを南下し市外の住宅街にある実家。となりは飲み水をひく湖のたたえた大津――という京都市内まで行き来していた現役時代は、應典院舞台芸術祭 space×drama、そして、遡れば大阪高校演劇祭のHPFにもかかわっていなかった。わたしは演劇がきらいな子どもであった。十四年前にはじめて足を踏み入れたシアトリカル應典院は、近隣でありふれたブラックボックスのように年季の入った小劇場の体をなしてはおらず、ひとごみあふれる夜のまちで一種、聖域のような立ち居振る舞いをしていた。ヘールチャペルの建つ夕陽の丘をかけ降りる下校時、金銀でふちどられた黒地の星をかざる女生徒たちが道草を食うにも、そう遠くはない場所にある。しかし、ここが寺でもあるという内情は日々、聖書を片手に祈りをささげていた六年のあいだはおろか、二十五歳になるまでずっと知らずにいたのだった。
――いのちのおわりとはじまりが、あなたとわたしをわかつまで。ものごとの善悪といった二元論の観念から生じる慈しみと憎しみがあったとしても、天王寺区下寺町に門をかまえる應典院は、そこで正反合をかかえる一般の市民へもひらかれているとともに、聖俗一如とでもいうかのようなたたずまいをしている。
本年の十一月は帰阪して、Tab.4『磔柱の梨子』- Beggars in pear orchard を上演する。書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み「Tab.」において、女優の売春性を評した人間座スタジオ、今はなき夏のアトリエ劇研、千秋楽をおえたばかりでアーティストにとって冬の避難所となりつつある京都芸術センター……と、わたしたちの行く末を蝕む病を照らし出し、劇場へのあて書きをしてきたN₂(エヌツー)が、次回は浄土宗應典院の本堂を舞台とする。俳優は書き下ろされた劇詩を読むのではなく自分で書いたテキストを口にし、ときに傷を創りながら自身が主体となる物語をすすめていく。途中、気づきにより曇りがちだった心が晴れる日もあるように、演出家は彼らの語りを聞き入れ、そこから劇作家として見い出した台詞もって彼らにこたえるが、薬とおなじで他者のことばは人体にとって異物である以上、痛みを排するためのケアにはなりえない。治療ではないのだ。だからこそ、寺院と病院は似て非なる建てものなのだろう――と、わたしは分別している。
2015年の『居坐りのひ』は、医療と創作において雲泥のひらきがある生命倫理に途惑わずにいられなかったとはいえ “あの日” を書かなければ死ねないという一心で従事していた。十五の年に先立って眠ろうとしたもののことを忘れずにいても、1995年に起こった震災については覚えていない。しかし、わたしは音信不通の彼女を殺めたわけでも救いたいわけでもない。それでも、どこかで出あい直すための入り口はあるはずだ――と信じていたかったのだ。人はいつ、この世からいなくなるかわからない。日本人の死因でもっとも多いのはがんであると代表されるように、短命でおわれなくなった今は、長生きしているが故に老いて亡くなっていく身内も少なくはない。いつまでも青いブレザーで外を歩けはしないから、はじめてのスーツは黒にした。だが、近年は二十歳を過ぎても喪服がないという若者もいるようである。遠くへ行ってしまったものがどこにいるのかよりも、彼らは何によって立っているのかということのほうが気がかりだ。
死とともにある大蓮寺と生をともにしてきた應典院。前者は葬式をする寺であるが、後者は『葬式をしない寺』から “葬式をする寺” になる。キリスト教が神の国へ入るために……というのであれば、仏教では極楽浄土へ入るために念仏を唱え日々を暮らしていくのだという。わたしはクリスチャンでも仏教徒でもないが “じゅず” くらいはもっている。死後、遺体は火葬するのではなく骨は海へまいてほしいという女性がいた。また、わたしはわたしで自然葬――いわゆる水葬や風葬、樹木葬といった、とむらい、とむらわれる人々のあり様を次の作劇に生かせないかと話していた日もあった。育った家へと帰れば、墓も仏壇もある。来し方は、おしえてもらったから知っている。でも、前にならったところで行く先が一向にわからないのだ。ご本尊は、黄金にかがやく柱へはりつけになったまま。息子である主幹の秋田光軌氏が客席へ降り “浄土宗應典院20周年記念シンポジウム” と看板がさげられた本堂ホールで、秋田光彦住職をはじめとして他三名の識者が壇上へあがる。
佛教大学社会学部の教授として、地域社会と宗教文化のかかわりを研究する大谷栄一先生。海のむこうであった9.11と3.11の津波にプロットされた時世の潮流から「都市寺院」である應典院のすがたが浮かんでくる。バブルの崩壊によって流動化した都市をかたちづくる構造物は、どういった風にして経済活動の生贄とならずに動産 / 不動産として価値を生むべきか。大河内大博先生は願生寺の住職であり、在宅医療を中心に臨床仏教師として活動する。医療の現場でケアワークをしながら、社会における自分自身の立ち位置を示す「座標」としてある應典院。患者に忌み嫌われていたのは医師、僧侶といった立場自体ではなく、カルテに顕れずとも潜在する苦しみへのよりそえなさであったのだろう。東京大学の名誉教授と上智大学グリーフケア研究所の所長をつとめる島薗進先生は、世を震撼させた95年を振りかえる。もっと早くに善処できていたであろう事件と事故、遅れてやってくる二次被害。正しく悲嘆に暮れられなかった青少年と大人のかけ込み寺としても、應典院は未来を担っていくのかもしれない。
三時間で語られた「表現」、「協働」、「教育」からなる三本の柱を主軸として “一体の場” を回してきた劇場寺院の二十年は非常に目まぐるしいものでありながら、いつだって彼らはオーディエンスへ耳をかたむけることをいとわなかった。ただ、いち文化拠点として未だ既存の “日常からはなれた場所性” へ依拠しているようにも見えてしまう。雨風にさらされるコンクリートと鉄骨、観客はガラスごしに墓地をのぞみ、気づきの広場で木漏れ日が揺れている。さて、河原乞食といわれる “わたしたち” には常に貧困がついてまわる。台詞は祝詞、そして、祝祭、フェスとうたわれる公演も然り、冠婚葬祭には莫大な金がかかるのだ。男も女も、みな神仏はおろか偶像ですらないのに身を削り、心を砕いて生活をしている。過去、ホームグラウンドで「劇場は家である」と彼の小屋主がいっていたように、帰るべき場所にある居心地の良さは生まれる前から知っている。たとえ、後に悲劇が待っていたのだとしても失楽園に住むのは悪くない。でも、今ここを生きるわたしたちが失ったのは、ほんとうに死生観だったのだろうか。
〇レビュアープロフィール
杉本奈月(すぎもとなつき)
劇作家、演出家、宣伝美術。N₂(エヌツー)代表。1991年生まれ、26歳。京都薬科大学薬学部薬学科細胞生物学分野藤室研究室中退。2015年、上演のたびに更新される創作と上演『居坐りのひ』へ従事。第15回AAF戯曲賞最終候補となり「大賞の次点」(地点 三浦基)と評され、ウイングカップ6最優秀賞受賞、第16回AAF戯曲賞一次審査通過。2016年、書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み「Tab.」、処女戯曲の翻訳と複製「Fig.」を始動。外部活動は、缶の階、dracomにて演出助手、百花繚乱文芸マガジン「ガーデン・パーティ」(LittleSophy 落雅季子 責任編集)にて京都日記『遠心、日々の背理』エッセイ連載など。第9回せんがわ劇場演劇コンクールファイナリスト。
〇レビュアー公演情報
|連載|2017年04月~2018年06月
百花繚乱文芸マガジン「ガーデン・パーティ」
京都日記『遠心、日々の背理』
http://www.mag2.com/m/0001678567.html
|第9回せんがわ劇場演劇コンクール|
2018年07月15日(日) せんがわ劇場『桜紙』
http://www.sengawa-gekijo.jp/kouen/20255.html
|N₂|http://gekidann2.blogspot.jp/
2018年08月03日(金)~08日(水) <避暑地> 於 studio seedbox
2018年11月09日(金)~11日(日) Tab.4『磔柱の梨子』於 浄土宗應典院
2019年03月08日(金)~11日(月) Fig.2『桜紙』― Tab.5『退嬰色の桜』於 CCO